高橋ハナのいといみじ 自意識について考える
大学に入る直前から1年間、まあまあ大きいタレント事務所に所属していた。大好きだった「神さま」ともうきっと会わないんだろうなと思ったとき咄嗟にそうしたのは「どこに行っても私の顔を見せてやんよ」という恐ろしい動機で、のちにそれが成されたのとそもそも写真を撮られるのが嫌いというところに立ち返ってすぐやめた。写真家の家系だったので身内以外に撮影されるのが好きになれず、祖父も父も亡くなったので私が撮影されることは今生ではもうないだろう。
子供の頃は人気アイドルの相手役モデルに駆り出されたり(素性が調べられるとその子が危ないということで素人の私が連れていかれた)、雑誌社のすぐ裏にある中学校に通っていたり、高校大学に入ってからも周囲にはわらわらと「芸能人」がいた。映画を見に行って重要なところで同級生が出てきたりすると現実に戻されたりすることはあるが、お仕事順調で何よりと思う。何が言いたいかというと、私は目立つのが好きではないということと芸能人を特別視するようなメンタリティを持っていないということだ。
連れがよくSNSを見ていて、承認欲求の塊みたいな人を見つけてはすごいな…とある意味感嘆の声を上げている。かつて人前に出る仕事をしていた彼は、自分はモテないを拗らせておかしくなっていたと言う。誰でもいい、モテたい、認めてもらいたい。私にはこういう感覚がほぼなくて、私が好きだなと思う人間にだけ認めてもらいたいと思ってきた。仕事でもそれは如何なく発揮されていて、表に出る系のことは基本的に断っている。莫大な富や名声がなくても、生きるのに不足がなければいい。
そもそも真面目にスピリチュアルなんてものを扱おうとしたら、自意識は必ず邪魔になるものだ。自分という意識があると届かない領域があるのは、古今東西多くの神秘家や瞑想家が言ってきたことで、私も実際に体験して理解した。それまで理解できなかった本の文章は体験したことで鮮やかな同一の体験として受け取れるようになり、どの本は嘘ばかりでどの本は真実を書こうとしているかもわかるようになった。自分が教えているクラスで「人間でなくなるのは怖い」と泣かれたことがあるが、私は充分に人間のつもりだ。
私は音楽が好きな人間だが、たまにSNSを覗くと音楽が好きなのか承認欲求が強いのかよくわからん人がいるなと思うことがある。芸術作品と作者の在り方は切り離せないとは思うが、個人的には作品が好きなら特に作った人のことは気にしない…というか、作品にその人が出ているので好きじゃない人の音楽を聴いたり本を読んだり絵や写真を好きになることはないと思う。逆に作品以外のところでその人に依存するのは作品ではなくその人のファンということだよなとも思う。
好むと好まざるとにかかわらず人間は変化するもので、15の頃に好きだったものを同じ熱量で愛せる人がいるとしたら、その人は恐らく内面的に成長していない。だがそんな人はいないはずだ。いろいろな経験が蓄積されたら、自ずと形成される感性は変わっていくのだから。私は15の頃尾崎豊が好きだったが、17で聞けなくなった。変化する感性をかつてのまま留めようとしているように感じてきつかったからだ。私は変化を受け入れる人間が好きだし、自分自身も必要なら30秒で変わってやるよと公言する高校生だった。
自意識の叫びは、誰かの人生の途中で置いていかれる類のものだろう(ノイズやハードコアが好きなのは若い頃から変わらないので、自分の感情を叫んでいるのはとても好き)。老人になってまで俺が俺が私が私がと言っている人間の数はそれほど多くない(と思いたい)。だから芸術家やミュージシャンが年とともに表現を変えていった・いくのを見ると嬉しくなる。自意識から「自分とあなた」「自分と周囲の人間」に広がっていった意識がどんどん大きくなり、生きるのが楽になっていくのを見るのは仕事柄もあってか本当に幸せだと思う。そして、その変化が「人間」だと思っている。