次にいつ行けるかわからない状況になってしまったが、こうなる前はエジプトにちょこちょこ行っていて、古代エジプトの神という概念や霊的な教えについて調べてきた。本筋は古王国だな、相当昔に遡らなきゃいけないんだなと思いつつヒエログリフをどうにか読める程度まで学んでいるうちによくスピリチュアルの本であるようなこと...何かが教えてくれる的なことが起きて、個人の名前をヒエログリフ表記で多層的に読み込んでいくとその人のテーマらしきものが顕れていることを見つけた(これについては、ヒエログリフ自体に英語やドイツ語の辞書しかなかったので日本語で一通りまとめてみた。そのうち希望する人には渡そうと思っているが、ヒエログリフはとても多層的に意味を表現する言語だと感じる)。
話は変わるが、私の曽祖父は伊勢の宮大工をしていて、皇居の造営か修復かの仕事で東京に出てきてそのまま居ついた人間(父に言わせると伊勢から逃げ出した人)だ。今でも本家は伊勢に玉砂利を奉納しているような家なので、家族たちは神とか霊的な世界についてはあって当然という環境で私は育っている。初めて伊勢神宮に行ったのは15年前くらいだったが、その日の夜にそれまで経験したこともなかったほど酷いアレルギー症状が出て、頭が割れるんじゃないかと思うほどの頭痛になった。その全部の症状は朝起きたらけろっと治ってしまって、なぜか私はひいおじいちゃんめ...と思った。それからいろいろあって、私はそれまで気にしたこともなかった神社という存在を意識するようになった。
令和が始まる半年くらい前から、ヤマトの国に含まれていなかった東北・北海道と沖縄を日本に含めなければ、という思いでアイヌの神々や沖縄の神々を祀る場所などで、私には”龍”として認識される存在を繋ぐ...その地域の龍を別の場所に連れて行き、降りたいところで降りてもらうということをするようになった。こんなことを時間もお金もかけてやっていて、我ながら伊達や酔狂だと思うことも(わりと頻繁に)ある。でも、私にとってこういった作業はもう人生の一部みたいになってしまっている。
私が行くのは基本的に縄文の神が祀られている場所、磐座や神奈備、神呂木と川のある場所だ。ものすごく簡単に言ってしまうと、調和が取れていた...まだ目に見える形でヒエラルキーが存在せず、イデオロギーの違いを理由として戦うことがなかったであろう時代の神を探していたら、エジプトからシュメールとインドを経由して、結局日本に戻ってきた。
目に見えない”エネルギー”としか呼べないものを、自覚を伴って感知する人は実はかなり多いのではないかと思う。自覚がなくても、きちんと祀られた神社の領域に入ったときに凛とした空気やいやな感じのしない重みを感じる人はもっと多いだろう。私は小学生の頃に”すべてが私だ”という体験をした。今の今まで”ごっちゃん”と認識して話していた同級生が突然”私になった”。驚いて辺りを見回すと、道を歩いているおじさんも並んでいる家も全部が”私”で、すべては地球から生えているエネルギーの形態のひとつだったのだが、それ以来そういった目に見えないはずのものを見たり感じたりわかったりするようになった。
先に結論から書いてしまうと、人間は神だ。少なくとも、神の一部だ。
こんなことを書くと頭がおかしいと思われるんだろうなあと思うけれど、何回かに分けてその根拠などについて書いてみたいと思う。
(高橋ハナ・ヒーリングと占い・金魚堂のnoteでの記事を修正して掲載しています)