フジテレビの記者会見を見ようと久しぶりにテレビをつけたのは、大学の頃キラキラしていた世界が壊れるのを見届けようと思ったからだ。フジテレビどころか日本のジャーナリズムが死んでいたのを見ることになるとは思ってもいなかった。
バブルがはじけた直後あたりに大学で放送を専攻していた。当時はトレンディドラマ全盛期ということもあって、少しオーバーに言えば同級生は皆CX・・・フジテレビで働きたがっていた。私は入学してから撮影にも企画にも、何だったらテレビにも興味がないことに気づいたのでどうしたものかな、と思いながらだらだらと日々を過ごし、同級生たちが誰がPをやるだのDは誰だので揉めているのを遠目に見つつ四年に上がる前に退学届を出した。ちなみに四年で卒業できないのは決まっていた。
制作には何一つ興味がなかったが、ジャーナリズム論あたりの考える授業は好きだった。今ではもう古くなりすぎて通用しないだろう理論をノートに書きながら、文芸学科にすればよかったと何度後悔したことか。要するに私は頭でっかちで、物事をこねくり回して考えるのが好きだった。そんな人間だから親に「危ない」と言われ、哲学科の受験はやめるよう言われたのだけれど。
私は「ジャーナリズムはできるだけ俯瞰でものを見た上で自分の意見を伝えようとするもの」だと教わった。何かを訴えかけるために、まず公正にものを捉えるのがジャーナリズムだと教わった。だから例えば右派の言葉に興味を持ったら左派の意見も知ろうとしてきた。バイアスのかかった状態では中立の判断ができず、結果として正確にものを見たり伝えたりはできないはずだ。
スピリチュアルと呼ばれるものを仕事にするようになって15年以上経つが、曖昧な世界だからこそそうした考え方が必要だと思っている。高いお金を払ってセミナーに参加しても何ら霊的な洞察が得られないこともあるが、そんなとき「自分のヒーリングサロンのメニューには入れられないわ」と笑っていた先輩がいた。彼女は20近くの免状を持っているのに、自分にとって効果が感じられないと判断したものは何一つ使っていなかった。
ジャーナリズムにもスピリチュアルにも、必要なのは他者を尊重する感覚と誠実さなのではないだろうか。さらに言えば、バイアスを排除して吟味すること。自分の習うものは効果があるという前提は、あまりにも無邪気なのではないかと思う。
フジの会見に戻るが、自分の論理を一方的にまくし立て、回答は聞かない。設定されたルールを無視して大声で喚く。「週刊文春によると」を根拠にした質問。公正さを担保する第三者委員会でまだ調査中のことやプライバシー関連で答えられないことを一方的に糾弾する。これは中立ではなく自分の立ち位置からしかものを言っていない態度であって、従って私に言わせればジャーナリズムではない。単なる自己顕示欲や特権意識の発露だ。
そして間違った情報が出たときにしれっと訂正記事を有料記事として出す文春編集部も文藝春秋も同様、世論を動かせる力に酔っているだけだ。文藝春秋のサイトには「表現の舞台が広がる現代にあっても、「自由な心持」で語りたい」とあるが、時代にそぐわないものが叩かれるなら文藝春秋も対象だろう。「書かれた相手が自殺する事も頭の片隅に置いて、それでも書く」なら100%責任を持った正確な情報でなければならない。紛争の片方の意見だけを書くなどもってのほかで、誇張が許されるはずがない。
自由にはいつの時代でも責任が伴ってきた。だが、誰かの「自由」をどれだけ多くの他者が知るようになったことか。そして、出版社やテレビ、新聞などの特権的なメディアだけでなく個人が「自由な心持」で意見を表現できる時代になった。歴史のあるメディアが未だに信頼されているのはリテラシーの部分なのだから、信頼に足るものを発信できなければ衰退するしかないのはわかりきったことではないのか。現状を見たら文藝春秋の創業者でもあった菊池寛はどう思うのだろう。
傲慢さは組織を殺し、社会を殺し、人間性を殺す。
ニフティの時代からネットを見てきて、炎上騒ぎが起きるたびにデビルマンとハレンチ学園を思い出す。一方的な正義を振りかざす群衆によって、不動明が住んでいた家の人間がどうなったか。ハレンチ学園の先生と生徒たちがどんな最期を迎えたか。永井豪が描写した「悪」を取り巻く人間たちの姿は小学校低学年だった私にとって恐怖以外の何物でもなかった。言葉で気持ちが通じないなら、論理が理解されないなら贄になるしかないのか、と。
スピリチュアル… というより霊的な世界は絶対にこうなってはいけない。世間に詐欺まがいと思われるだとか怪しいと言われるなんてことはどうでもいい。仮にもワンネスだ、平等な世界だなどと言っている「ライトワーカー」は自分が突出しようとした瞬間に「自称ジャーナリスト」と同じ立ち位置になってしまう。ましてや他者に影響を与える立場に甘んじて謙虚さを失ったら、永井豪が描いた恐ろしい人間の側にいつ立ってしまうかわからない。シモーヌ・ヴェイユなら「重力」、坂口安吾なら「堕ちる」こと-自分自身を深く見つめることなしに他人に影響を与えようとしたら、穏やかな世界とは逆方向に集合意識を向けることになってしまうだろう。