ヒュパティア

アレクサンドリアが殺した賢者 ヒュパティア

家の前の人だかり

 アレクサンドリアのある家の前は、いつも人で混み合っていた。ヒュパティアの話が聞きたいと街中から人が集まってきたからだ。数学を学びたい者、天文を知りたい者、プラトン哲学に触れたい者。キリスト教徒もそれ以外も、信じる神の違う者たちが彼女のもとに通った。当代きっての学者で、その教えを受けられること自体が名誉なことだった。

 ヒュパティアは天文学者テオンの娘として生まれ、幼い頃から数学と天文学を学んだ。やがて父を追い越した彼女は、アレクサンドリアの新プラトン主義の学校を率いる。講堂の壇上で、ヴェールをまとった彼女は天体の運行を語り、星の位置を測るアストロラーベの組み立て方まで説いてみせた。ローマの長官さえ知恵を借りに通った。古代の地中海地域で、これほど広く敬われた女性はほかにいなかった。

司教にならないかと請われた弟子

 ヒュパティアは特定の信仰を持たなかった。彼女が伝えたのはどの神への帰依でもなく、世界を測り、考え、解き明かそうとする態度だった。だからこそ、信じる神の違う者たちが分け隔てなく彼女の元に集まったのだ。 

 弟子の一人にシュネシオスという男がいた。皇帝を面と向かって叱るような、辺境の軍事まで任された重鎮だ。あるときキリスト教の司教にならないかと請われたシュネシオスは、二つの条件を出した。妻とは別れないこと、二つの思想を捨てさせようとしないこと―魂は生まれる前から存在するというのがひとつ、もう一つは世界は永遠に続くという思想だ。どちらも師であるヒュパティアの教えで、キリスト教の教えに真っ向から背いている。司教の座を受けても、彼は師に習った理性を手放さなかった。彼女の教えは、それほど深く人々に根づいていた。

街がふたつに割れる

 長い間ヒュパティアは街の誰からも敬われ、危険とは無縁だった。流れが変わるのは、強硬派の司教キュリロスが現れてからだ。彼は信徒をけしかけ、異教徒たちを町から追い立てた。信仰を力ずくで一色に塗り潰そうとするキュリロスとローマの長官オレステスが真っ向からぶつかり、街は司教派と長官派にまっぷたつに割れる。

 オレステスはヒュパティアにアドバイスを求める関係だった。キュリロスにとっては彼女の存在自体が面白くなかった。「あの学者が長官を操り、和解を妨げている」—そんな噂がキュリロスの信徒たちに流される。どの神にもつかずに理性を説いて慕われていたことは、信仰で街を束ねたい者にとっては邪魔以外の何ものでもなかった。こうしてヒュパティアは政争の標的になっていく。

貝殻に削がれた理性

 惨劇はイースターの準備期間に起きた。ペトロスという男が率いる一団に道を塞がれたヒュパティアは、馬車から引きずり下ろされた。男たちは彼女を教会に連れ込むと、生きたまま肉を削ぎ落としていった。息絶えたあとも暴行はやまず、亡骸はばらばらにされて街外れで焼かれた。何ひとつ罪を犯していない学者は、神を讃える断食の月に神の家たる境界で信徒の手にかけられたのだ。

 この襲撃に加わった者は誰一人として裁かれなかった。それどころかキュリロスは異教を退けた功労者として称えられた。理性を死なせた人間はいつの間にか聖人に加えられ、殺された側は「哲学の殉教者」と呼ばれるようになった。ヒュパティアの死は、世界の知の中心としてのアレクサンドリアを終わらせていった。こうして異端者として葬られた者たちは、古代から綿々と連なっている。

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