百年たったら帰っておいで 寺山修司と九條映子
ドアを叩く音
1975年4月19日午後3時、東京・阿佐ヶ谷。観客は代金と引き換えに、切符代わりの地図を一枚受け取った。地図を頼りに歩いていくと、住宅街の路地や銭湯の湯船で劇が始まっている。全身を包帯で巻いたミイラ男が見知らぬ家の扉を叩き、マンホールからは奇怪な扮装の男が現れる―上演時間は翌日20日の午後9時までの30時間という市街劇「ノック」。
事前に何も聞いていない住民が悲鳴を上げて110番通報をしたことでパトカーが駆けつけ、この騒ぎは新聞の社会面に載った。仕掛け人の寺山修司は「市街劇とは市民の日常に異物を持ち込み、あなたの平穏無事とは一体なんなのかと問いかけることなのだから、市民が巻き込まれるのは当然の成り行きだった」と言い放った。劇場という枠組みを外したら、芝居と現実の境界線は誰にも引けなくなる。寺山はその線が曖昧になる瞬間を狙い続けた男だ。
そして寺山の後ろには製作者として後始末を引き受ける人物がいた―九條映子、この騒ぎの5年前に寺山と離婚した元妻だ。
走る汽車の中で
寺山修司は1935年12月10日、青森県弘前市に生まれた。だが戸籍に記載された生年月日は翌年の1月10日、人生の最初からすでに虚構だ。父の八郎は特高警察の刑事で、転勤のたびに一家は県内を転々としていた。やがて父は出征した南方のセレベス島で病死、9歳だった寺山は青森空襲の火の中を母とともに逃げた。焼け出された母子は三沢の駅前へ移り、伯父が営む寺山食堂の2階に間借りする。母のハツは米軍基地で働き始め、寺山が中学に上がる頃に福岡の基地に移っていった。寺山は青森市で映画館を営む大叔父に引き取られる。与えられた部屋はスクリーンの真裏で、フィルムの光と音の中で暮らすことになった。
寺山は自分の出生について「走っている列車の中で生まれた、だから故郷はない」と言った。もちろん事実ではない。経歴や思い出について虚構混じりに話し、事実なのかと問い詰められても悪びれなかった。過去は変えられないと人は言うが、虚構なら何度でも書き換えられる。スクリーンの裏の部屋で身につけた技術だったのかもしれない。
18歳で短歌の新人賞に選ばれて天才の名をほしいままにした直後、俳句からの引用を指摘されて盗作論争の渦中に立つ。早稲田大学に入学した次の年にはネフローゼを発症し、大学どころか人生から切り離されて3年ほど病院で過ごした。死と隣り合わせだった10代の終わり、寺山は言葉を武器にすると決意する。「職業は寺山修司です」— 肩書を聞かれるたびにこう答えた。