ツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)は、その墓のきらびやかな副葬品で世界に知られるようになった若きファラオです。古代エジプトの新王国、第18王朝で、父王アクエンアテン(イクナートン 、アメンホテプ4世)の息子として、義理の母親であるネフェルティティと共同統治を行いました。幼少期を過ごした都・アマルナが打ち壊されたため、その時代のツタンカーメンについてはよくわかっていません。しかし、その短くも波乱に満ちた人生には、驚くべき真実が潜んでいます。
ツタンカーメンが即位したのは8歳から9歳だと言われています。彼の統治は約10年間にわたりました。彼の統治時代は、アクエンアテンの行った急進的な宗教改革の影響を大きく受けていました。アクエンアテンは、汚職などが蔓延っていた神官の力を抑えるため、それまでのアメン信仰から太陽神アテン神を唯一神とする宗教改革を行い、都をテーベからアマルナに移しました。しかし、この改革は国全体に不安定をもたらし、神官や民衆は大きな不満を抱くこととなったのです。
ツタンカーメンが王位を継いだとき、エジプトは混乱状態にありました。彼はアクエンアテンが行った改革を再び元の状態に戻すよう求められたのです。ツタンカーメンの治世中にはアメン信仰の復活が進められました。「トゥト・アンク・アテン」=ツタンカーテン(アテンの生き写し)だった彼の名前は「トゥト・アンク・アメン」、ツタンカーメン(アメンの生き写し)となりました。彼の政策は、ネフェルティティやアメン神官たちに大きな影響を受け、ツタンカーメン自身はまだ若かったこともあって決定権を持てなかったと考えられています。
そして、ツタンカーメンは健康面での問題も抱えていました。DNAの分析から、先天的な骨疾患やマラリアなどを患っていたことが判明しています。左足首には骨の変形が見られますが、王家の谷KV62にあるミイラのレプリカからは、体に対して足がとても小さかったこともわかります。彼の短い生涯は、こうした先天的な要因も理由の一つだと考えられています。
ツタンカーメンの墓がほぼ手付かずの状態で発見されたことで、彼は結果的に現代の私たちにとって古代エジプトと現代をつなぐ手掛かりとなりました。黄金のマスクなどの豪華な副葬品は、彼を「黄金のファラオ」として名高い存在にしています。ツタンカーメンは異母妹アンケセナーメンを妻とし、二人のほほえましい姿は多くのレリーフとして残されています。こうした遺物によって、歴史に翻弄された悲劇の王という側面だけではなく、ツタンカーメンの人間らしさが浮かんできます。異端のファラオの息子として生まれた彼の人生は、古代エジプトの宗教と政治、そして社会の複雑な絡み合いを如実に反映しています。