七人ミサキは四国や中国地方に伝わる伝承です。深い恨みを持って死んだ七人の怨霊に出会った者は、高熱を出して命を落とします。するとその人が七人ミサキに加わり、元々の七人のうち一人は成仏、結果として常に七人が共に行動するとされています。
各地に伝わる七人ミサキの伝承ですが、高知では長宗我部家が深く関わっています。名君として知られていた長宗我部元親は、長男の信親が九州征伐で亡くなったのをきっかけに暴君に変わってしまいました。やがて誰に家督を相続させるかという問題が起き、元親は家臣だった甥の吉良親実に切腹を申し渡します。親実と対立していた側近の話を真に受けてのことでした。
吉良親実という人物
吉良親実の妻は長宗我部元親の娘だったというほど、元々はかなり重用されていました。長宗我部家は鋳造技術を持ち祭祀を司った秦氏の末裔だったので、甥の親実もその一族ということになります。
知り合いの家で碁を打っていたところに使者が来て切腹を伝えられた親実は、「自分は秦家に連なる者として、主君の過ちを正す責任があった。奸臣の言葉を真に受け忠臣を殺そうという主家は衰びるだろう」と言ったといいます。親実の切腹に伴って彼に仕えていた家臣たちも殺され、この親実にまつわる事件が各地に伝わる七人ミサキの原型だと言われています。
親実の死後に起きた怪異と奸臣・久武親直
親実が切腹した場所や墓所には火の玉が現れ、馬に乗った首のない武士を目撃する人が現れます。目撃者は高熱を出し、亡くなる人が相次ぎました。讒言で親実を切腹に至らしめた久武親直の家でも七人の子が亡くなり、妻は自害したとも発狂したとも言われます。『長宗我部元親伝』では仁淀川の渡し船に6,7人の影が乗り込み「吾れは左京進(親実)の幽霊なり、生死の恨み晴らさんとて大高坂へ急ぐなり」と言った、親直の次男は老婆の姿となった親実に抱きあげられたのちに不省となったなどと書かれました。
元親は親実たちの供養を行いましたが、読経中に位牌がガタガタと動いて飛んだといいます。親実を祭神として吉良神社が建てられ、親実の首を洗った鉢が残っています(現在は若一王子宮に合祀)。亡くなった七名を祀る七所神社も置かれました。
親直の兄・親信は討死する寸前、主君だった元親に「弟(親直)は腹黒き男ゆえ、私の跡目を継がせないでください」と言ったと言います。長宗我部家は盛親の代で大名として滅びますが、『土佐物語』では盛親による兄・津野親忠の殺害を家康が咎めたためとされました。これも久武親直の讒言が大元の原因になっており、親直の讒言によって家督を得た盛親は、親直によってその地位を失ったことになります。
現代まで続く七人岬の物語
七人ミサキの物語は、家臣の忠義心を浮き彫りにしています。命を失うこともそうですが、親実は誠意が伝わらなかったことが心から無念だったのでしょう。親実の心情は、現代を生きる私たちにも理解できるものです。歴史的には怨霊とされている人々の背景には、どうしても伝えたい思いがあったに違いありません。怨霊を生み出してきたのは、生きている人間だったのです。