戦国武将・織田信長は比叡山の焼き討ちを行いましたが、これがきっかけで武田信玄と敵対することになります。信玄が「天台座主 沙門 信玄」と署名した挑戦状に対し、信長は「第六天魔王」と返しました。現代でも信長と言えば「魔王」というイメージを持つ人も多いと思いますが、歴史上で第六天魔王と言われたのは蘇我入鹿や平将門、後醍醐天皇など複数存在します。
第六天魔王とは何か
第六天魔王とは仏教において欲望にまみれた「欲界」に住む天魔で、欲望や煩悩を操って修行を妨げるとされています。ヒンドゥー教のシヴァ神が起源とされ、他化自在天や第六天魔王波旬、マーラ(魔羅)に当たります。日本では、この名が強大な権力者や反逆者の象徴として使われることがありました。
織田信長と第六天魔王
織田信長が自らを「第六天魔王」と名乗ることになったきっかけは、姉川の戦いで比叡山が浅井・朝倉の軍勢を援助したことにあります。姉川の戦いでは信長が勝ったにもかかわらず、比叡山に敵軍が立てこもっている状況は続きました。信長は比叡山に対して「中立を守ってほしい、さもなければ焼き討ちする」と伝えたものの、返事はありませんでした。
敵対する勢力を一つ一つ撃破していった信長は、最終的に比叡山延暦寺を焼き討ちしました。『信長公記』では、高僧も女も子供も首を刎ねられたと書かれています。この仏罰を怖れない行為が人々に衝撃を与え、「仏敵」として恐れられるようになりました。
信長は敵対した比叡山に対しては容赦なかったものの、社寺に寄進を行って保護、領地内でキリスト教の布教を認めるなど、決して宗教を否定していたわけではありません。政治や戦いに手や口を出す寺に対しては厳しかったため、「政教分離」をはっきりさせていたのでしょう。また織田家は福井県の劒神社の神官が発祥だと考えられています。藤原北家と神官の家系である忌部氏に関わる家系ですので、神道に近しいことがわかります。
後醍醐天皇と第六天魔王
信長に先駆けること200年前、後醍醐天皇も「第六天魔王」と呼ばれました。彼は自らの皇統が正しいとして実権を握るため、足利尊氏たち武士の力で鎌倉幕府を倒します。ところが倒幕後の建武の新政で武士たちを冷遇し、公家中心の政治を行おうとします。社会は混乱して足利尊氏とも対立、後醍醐天皇は敗北しました。
後醍醐天皇は伝法灌頂を受けた阿闍梨で、真言密教を信仰していました。護持僧に鎌倉幕府調伏の祈祷をさせた、人間の心臓が好物という茶吉尼天のために髑髏を供えて秘儀を行ったとも言われています。倒幕計画がばれて京都を脱走、笠置山中に潜んでいたところを捕らえられて「天魔のせい」にしたとされますが、「天魔」が第六天魔王を指します。
京都から逃れて奈良県の吉野に南朝を建てたものの、わずか数年で亡くなった後醍醐天皇。恨みを残して死んだということで、怨霊になったと信じられていました。第六天魔王は言っても天界の存在なので、怨霊化するとはなかなかの落差です。
新しい時代を拓く
織田信長と後醍醐天皇は、その理由は違えども既存の秩序を破壊し、新たな時代を創ろうとしたという点で共通しています。そういった意味では、二人とも「第六天魔王」の名にふさわしい結果は得たと言えるのかもしれません。仏教や武家社会という、当時の「常識」を覆したことでその後の歴史は大きく変わりました。彼らはそれぞれの時代において革新的な存在だったことでしょう。
「第六天魔王」は天魔として怖れられてもいましたが、快楽を齎してくれるとして民間信仰も盛んでした。新たな時代を切り開きたいと願うとき、第六天魔王の力を借りるといいかもしれませんね。