慈覚大師・円仁
日本各地のお寺や修験に関わる地方に行くと、あちらこちらで「円仁」という名前を目にします。その寺の多くは今でも多くの人々を惹きつける魅力のある… スリルあり爽快感あり、美しい景色ありといったものです。そんな円仁はどんな人だったのでしょう。
円仁は794年に下野国(現在の栃木県)に生まれ、9歳で大慈寺に入って修行を始めました。その後、比叡山で最澄の教えを受け、838年に2回の渡航失敗を経て遣唐使の一員として唐に渡ります。在留資格が短期留学だったため、規制の厳しくなった天台山には入ることができず、不法滞在の身になります。結果的に天台山には入れず、五台山で所蔵されていた経文などを書写するなどして長安を目指しました。
霧の中で「聖燈」を目撃して文殊菩薩が現れたと感じたのち、長安を目指す中で金剛界大法の灌頂を受けます。天台宗で初めて金剛界曼荼羅を得た円仁に対して、師僧だった亡き最澄が夢に現れて泣きながら感謝し、拝んだと言います。長安からはなかなか帰国させてもらえず、日本に戻ったのは847年、実に9年6か月も経ってからでした。帰国後は多くの寺社を開き、山門派と呼ばれる派閥となりました。円仁は後に天台座主となりますが、関東・東北に500以上の寺を開いたとされます。
天台宗・山門派のお寺は楽しい!
円仁が残した数々の寺社には、独鈷の滝や八大童子の山などがある目黒の瀧泉寺、洞窟遺跡や美しい橋のある五大堂などがある宮城・松島の瑞巌寺、山の傾斜を使って物見堂や金色堂などを配置した中尊寺などがあります。寺社の敷地内が胎内巡りなどの洞窟、岩の間を体を横にして通る石段、岩場にかかった梯子で行くお堂などは、当時の人々にとっては心を躍らせつつありがたい仏様を拝みに行く密教のテーマパーク的なものだったのではないでしょうか。
山寺(立石寺)と垂水遺跡
山形県にある「山寺」こと立石寺も円仁が開いた山です。松尾芭蕉の俳句「閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」はここで詠まれました。険しい崖に建てられた僧房や山を登っていく長い石段が特徴で、運動不足の身にはなかなか厳しい…。今現在は一般の人は通れませんが、天狗岩と呼ばれる大きな岩のお堂に行くには谷の上を横に渡した木の梯子を使う必要があります。子供の頃はまだ通れたので平気で渡ってたんですが、大人になってから下を見たら、あの頃の自分はなぜそんなことができたのかと…。長い石段の途中には「岩の間を抜けることで生まれ変わる」場所や、街を一望できる舞台作りの五大堂などがあり、美しい景観で多くの観光客が訪れています。
立石寺を開山する前に円仁が修行していたとも言われる垂水遺跡は、上の写真のような特徴的な磐座で知られます。地元の有志の方たちが整備してくれた道の途中には猿の群れが現れることも。目を合わせると飛びかかってくることがあるので気をつけてくださいね…。日本各地の磐座の中でも飛び抜けて珍しい形状で、自己責任にはなりますが家で言えば二階や三階程度の高さまで登っていくこともできます。
文化的な影響
円仁が開いた山や行場は、自然の美しさと厳しさを表現した宗教施設だと言えるでしょう。修行僧向けの厳しい行場だけではなく一般の人々のための寺社は、現代でも多くの人々を惹きつける魅力があります。慈覚大師・円仁が作り上げた場所は、時を経て日本文化の一部としても重視されています。円仁が開いた寺社や行場を訪れるなら、円仁の精神や彼が追い求めた悟りの道に思いを馳せたいですね。そして、当時の人たちが感じたであろうワクワクした気持ちを味わいたいと思います。