坂口安吾(本名・坂口 炳五)は「無頼派」の作家です。新潟の名家に生まれた安吾は、その破天荒ぶりで叔父から「お前はとんでもなく偉くなるかも知れないが、とんでもなく悪党になるかも知れん」と言われていたといいます。あまりにも勉強しないので先生に「暗吾と名乗れ」と言われ、白紙の答案を出すなどを経て新潟中学校(現・新潟高等学校)を留年。真言宗の学校だった豊山中学校(現・日大豊山高等学校)での影響から東洋大学でインド哲学を学びます。
睡眠時間を4時間にして勉強し続けた安吾は神経衰弱に陥り、それをサンスクリット語やパーリ語、チベット語の勉強と哲学書を読んで克服したそうですが、この時点でかなりべらぼうです。さらにサンスクリット語の辞書を読むためにラテン語とフランス語、ギリシャ語を学び始め、アテネ・フランセにまで入学して成績優秀者に。この時点ではまだお酒なども飲まず、基本的にとても真面目な方向にぶっ飛んでいます。
作家になった安吾は戦後「堕落論」でブームとなりますが、安吾の文章はシリアスな題材を扱っていてもどこかユーモアが漂っています。死にたいという薄らとした欲求に悩まされながらも哲学的に考え続けた思想家としての安吾は、人間や社会の本質をけっこう声高に-時にはエッセイで、小説で、また時には裁判で-説き続けていました。
『堕落論』と『日本文化私観』に見る安吾の形而上学
『堕落論』では正しく堕ちる道を堕ちきること-自らの醜さ、弱さを見つめる先に自分自身の真実を知ることができると述べていますが、同時に人は永遠に堕ちゆくことはできず、安吾の言葉で言えば「早世の処女の純潔や聖女を求め、武士道を編み出さずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにはいられなくなる」弱いものだとも言います。だからこそ「他者からの借り物でなく、自分自身の純潔なるものを留め自分自身の武士道ないしは天皇を編み出すため」に堕ちきって自分自身を救う必要があるのだと。
これは他者の目や感覚を通してではなく「自分」という存在について考え抜くまさに形而上学ではないでしょうか。仏教哲学を睡眠を削って学んできたという背景を考えても、「無頼」派としての安吾が『堕落論』に息づいています。
また『日本文化私観』では「法隆寺も平等院も焼けてしまつて一向に困らぬ」「必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ」「実質がもとめた所の独自の形態が、美を生む」と言いました。意味を失った伝統や単なる権威は不要で、生活に根付いたところが本質だと説いたのです。評論家の磯田光一は「虚飾を捨てて人間の本然の姿に徹する」ことが安吾の言う「堕落」だと説明し、安吾は科学では捉えられない人生の領域で人間を見ていたのだと言いました。
本物の「無頼派」とは
「無頼派」と聞くと太宰治を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、安吾は「本物の無頼派」と言われています。この二人は同じ無頼派カテゴリですが、太宰治は感傷的で内向的、安吾は自己を超えた全体性を持つと評価されることがありました。
佐藤春夫は安吾の作品には高邁な精神が隠れていると言い、太宰と比較して「ただどこまでも頽廃的でいぶしのかかつたセンチメンタルなものよりわたくしは坂口の文学の方が文学の本筋だと思つてゐる」と言っています。評論家の柄谷行人は、無頼とは「人に頼らない」ことだと定義し「その意味で安吾はまさに無頼だった。太宰は死ぬときまで人に頼るほど頼りっぱなしであり、そういうものを無頼とは言いません」と言っています。※ 安吾と太宰治とは仲間うちで、死後に 太宰治情死考 というエッセイを発表しています。
こうした意味で、高僧やスピリチュアルを志す人は、最終形態としては無頼になると言えるでしょう。誰かもしくは何かに依存していたらその対象に影響を受け続け、本質としての自分には辿り着かないからです。安吾的に言えば「堕落し続けた先で自分自身の武士道ないしは天皇を編み出す」ことで到達する領域があるのです。三島由紀夫は「坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから、明るくて、決してメソメソせず、生活は生活で、立派に狂的だつた。」と述べています。
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