※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus
序文
以下の講義の主題は「古代エジプト人とバビロニア人における神の概念」であり、私は執筆にあたって、この側面を念頭に置き続けました。古代エジプトに関しての状況はともかく、バビロニアの信仰について体系的な歴史はまだ明らかにされていません。本文にも書きましたが、私たちは一般的な原則と断片的な記録からの情報で満足するしかありません。
そのため、バビロニアの信仰の本質と特徴を把握する上でほとんど進歩は見られず、宗教研究者からはある種の自然史学的な記述で充分だと考えられてきました。私がヒバートで行った講義やこのトピックに関する本を読めば、たとえ謝辞がなくても私の著作からの借用がどれだけあるかがわかって満足しています。ですが、私のヒバートでの講義はパイオニア的な仕事であり、私たちはそこで集められた資料を基にして構築していかなければなりません。したがって、本書ではそこでの資料を前提としています。資料の大部分は、ヒバート講義またはそれ以降に出版された楔形文字のテキストの中にあります。
古代エジプトの信仰に関しては、幸いにも私たちは恵まれています。特にマスペロ教授の比類のない学識と才能のおかげで、私たちは古代エジプトの信仰が実際どのようなものだったか、どのような基盤の上に成り立っていたかを学び始めています。教義の発展はある程度追跡できますし、衰退が進んでいった様子を知ることもできます。
古代信仰に関する研究によって、突きつけられた事実が 2 つあることを私はお伝えしなければなりません。一つは宗教的な思想には継続性があることを証明しています。「神の光はこの世に生まれるすべての人々を照らす」― エジプトとバビロニアの宗教は福音伝道師の言葉の前例で、いわばユダヤ教とキリスト教のバックグラウンドとなっています。古代宗教において、キリスト教は最も真実に近く最善の宗教です。エジプトとバビロニアの信仰と願いは、その教義の中で説明され、成就しました。
しかしその一方で、高い道徳性と精神的な洞察を持つにもかかわらず、ユダヤ教とバビロニアの粗い多神教の間にも、キリスト教と古代エジプトの信仰の間にも、越えることのできない溝があります。そして、この隔たりについての説明には 1 つしか答えはありません。古い言葉ですが、それは啓示宗教と非啓示宗教の境界線を示しているのです。それは定義しにくい「何か」、否定できない「何か」で、たとえ生理学的には猿が人間の祖先であるにせよ、人間と猿は区別されるようなものです。
A. H. Sayce. 1902年10月
Chapter.1に続く