
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 イントロダクション 1-5
※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 イントロダクション 1-1 1-2 1-3 1-4
その反面「文字通り」という思考が行き過ぎてしまうかもしれません。言語は「色あせた隠喩の宝庫」だと言います。これが言語すべてに当てはまるとすれば、神についての言語ならなおさらでしょう。物質の助けを借りなければ、私たちは霊的なもの、抽象的なものを理解できないのです。
私たちが霊的世界を表そうとしたら、その言葉はまず感覚の世界から引き出されることになります。絵や音楽が視覚と聴覚の神経を通して私たちに伝えられるように、すべての霊的な世界についての知識や信念もまた、感覚的かつ物質的な経路を通して伝えられます。
脳がなければ思考できないのと同じように、現象界からの類推、隠喩やイメージ、例え話に頼らずに善悪や美徳などの概念を人に伝えることはできません。精神的、道徳的なことを扱うなら、比喩的な表現形式に頼らざるを得ないのです。ですから、宗教は必然的に比喩を土台として築かれます。
こういった理由で、隠喩を「単に自然」な意味通りに解釈すると大きな誤りに陥ることがあります。残念ながら、過去の宗教史を研究する研究者たちは、そうやって解釈してきたのです。言語が「人々の記憶から消え去った古い信念や習慣を大切にしている」という事実に惑わされて、隠喩表現を大げさに捉えすぎたり、残された資料が暗喩の宝庫というわけでもないことを忘れています。
第6王朝のピラミッドで発見されたヒエログリフでは、天空の狩人サフ(オリオン座を神格化したもの)の記述があります。サフは「朝には大神を、昼には小神を、夜には小神を天の巨大なオーブンで焼いて食べる」というものです。これは「実際に古代エジプト人がカニバリズムが存在した」と性急に結論づけられました。聖体礼儀の言葉から「キリスト教信者はかつて人を食べていた」と結論づけるようなものです。「食べる、飲む」は明らかに比喩でしょう。「食べる」という言葉が「存在する」という意味を持つ言語さえあります。
ある部族の言語で「神の子羊」というフレーズを文字通りに翻訳したせいで、キリスト教徒は子羊を崇拝していると思われたという話を聞いたことがあります。神学のテキストは比喩で満ち溢れていて、文字通りの解釈で過去の思想や慣習を見いだそうとしたら失敗に終わるだけです。自らが信じる「真理」を教え込むため、意識的に例え話を使ってきたのはキリスト教だけではありません。仏教には「仏陀五蘊」という経典があり、どの経典より大きな影響をもたらしてきました。
古代宗教を研究する者にとって最も困難な課題のひとつは、神学言語がどこにあるのかを判断することです。象徴は、その起源が確定された単語または表現として描かれているでしょうか? それは最初から、彼らが認識する「神の真実」を伝えようと意図したものでしょうか?それとも、古代社会の習慣や考えを反映しているのでしょうか?
初期アーリア人が崇拝した対象に「明るい」という意味を持つ「Dyaus」という名前をつけたとき、彼らは実際の明るい空に神性を見たのでしょうか。それとも、自分の外側にある力が太陽のように明るく輝いているという事実だけを表した隠喩的なものだったのでしょうか。バビロニア人は神々を人間の姿で描きました。では、バビロニアの信仰は祖先を神格化して崇拝することから始まったのでしょうか。それとも、創造主という概念が自分たち人間と似ていると考えていたことを示すだけの象徴的なものだったのでしょうか。
こういった質問に対して現代の概念に沿った答えを見いだそうとする傾向があるが、決定的な答えはありません。まず、古代世界の文明国に生きていた人々が現代の人々と同レベルだという証明が必要です。現代の人々は原始人の代表ではありません。一般的な発展理論が正しいなら、原始人は人間の生活と進歩の本質について何も知らなかったことになります。でも、もし火を起こす技術も言語も知らなかったら、今日のような社会は成立していなかったはずです。