まだ世界にウイルスが蔓延していなかった頃、私たち家族は上海に住んでいた。世界の日本人学校で一番生徒数が多くなった時期で、中国の大きな都市にはどこにでも日本人がいた、活気のある時期だった。私たちが住んでいた外国人街はかつて墓地だったという噂があり、確かに金縛りはつきものだったし道を歩いていて幼い娘が「あのお姉さん泣いてる、どうしたんだろう」と指差した方向を見ても何も見えないのも日常茶飯事だった。
あるとき、せっかく中国にいるからということで万里の長城を見に北京に行くことになった。
中心街から少し外れたホテルに到着し、小学生になったばかりの娘を連れて街に向かう。北京という街の歴史的な場所をある程度見ておくという計画だ。故宮や天壇公園は煌びやかで、地元の人たちや観光客で賑わっていた。昼食に食べた北京ダックをいたく気に入った娘は機嫌よく楽しげに歩いていた。
ホテルに向かって歩いていると空気感が突然変わり、目に飛び込んできたのはニュースでよく見るあの広場だった。広場の四方では自動小銃を持った警官が警備に当たっていて物々しい雰囲気なので、銃のない国で育った人間なら一瞬構えてしまうだろう。一瞬ためらったが広場を突っ切らなければと思い、ふと娘を見ると真っ青な顔で震えている。私の手をぎゅっと握る娘に「どうしたの!?」と尋ねると、彼女は振り絞るように声を上げた。
「怖い!血とお肉が散らばってて足がつけない!」
火がついたように泣き出した娘をなだめるが、血の匂いがすると言って泣きじゃくったままそれ以上進めない。ホテルに向かうのに広場を突っ切らなければならなかったので、娘を抱きかかえて広場に入る。幼い娘の様子を心配した警官が次々に声をかけてくれたが、曖昧にごまかしながら謝謝とだけ言って進んだ。娘はその間もずっと血が、血がと言って泣き続ける。大人たちはあの事件のことを思い出しながら、足をべったり地面につけずに少しつま先立ちで歩いた。
(ひもろぎから転載)