「明日、15時からアパートのお祓いをお願いしたいのだけど」
一応こちらの事情を鑑みているような物言いだが、師僧のおかみさんの言うことは実質的に命令だ。私はいわゆるパートタイム坊主。寝食の面倒を見てもらう見返りに葬儀以外も引き受ける万事屋である。
翌日おかみさんに指定された住所に向かうと、いつもの汗っかきな不動産屋のT氏と作業服の男がいた。T氏は、孤独死や自死のあったいわゆる事故物件を寺に紹介することでキックバックを得ているようだ。
「排水溝は丁寧に掃除して浴室のガワ、床は張り替えたんだ。この匂いは絶対に物理的なものじゃない」
初見の作業服の男が私に早口でまくしたてる。困ってT氏を見ると、
「あらかじめご説明する時間がございませんで…。実は今回は人ではなく、猫なんです。多頭飼いをしていた入居者が猫を放りっぱなしで帰国したらしく…。とりあえず開けますね」
言いながら鍵を開けノブを回すと、異様な臭気が鼻をついた。入居者が孤独死したばかりの物件に立ち会ったこともあるが、この臭いは特にひどい。しかも人ではなく猫がホトケさんとはどう言うことなのか。
聞けば住人は外国籍。姿をくらました後閉じ込められた数十匹の猫は水を求めて最後に浴室に群がり、血を啜り合いこと切れていたらしい。内装工事や換気では臭気は収まらず、寺に依頼したとのこと。
祓ってこの臭いがなくなるのか…。そんな考えが頭をよぎったが、この臭いから一刻も早く逃れたくて折り畳みの壇を据えて祓いを始めた。口だけで呼吸をしていたせいかひどく喉が渇く。一通りの読経を終え、足早に物件から離れた。
おかみさんに電話を入れる。業務終了連絡だ。「Tさまの祓い、つつがなくお勤めさせていただきました」。いつもならばご苦労様の一言で終わるはずだった。だが「一度こちらに寄りなさい。動物がやかましくて仕方ない」。おかみさんはそう言い、電話は切れた。強い語気に面食らった。一刻も早くシャワーを浴びたい気持ちもあるが、おかみさんの言うことは絶対だ。そしてふと違和感がよぎる…おかみさんはなぜ動物の祓いだと知っていた?
住職とおかみさんの住まう離れのインターホンを押すと、おかみさんが応えた。
「動物のけたたましい鳴き声、あなたには聞こえていなかったのね」
その瞬間あの臭いが鼻の奥から蘇ってきた。私は祓いの対象が畜生だとどこかで手を抜いていなかっただろうか。僧侶であることに慣れ慢心していたことを恥じ、件のアパートに日参し勤めを繰り返した。日が経つにつれ臭いはなくなっていった。あの得も言われぬ臭いは声なきものが最後に伝えたかった無念だったのかもしれない。
(ひもろぎから転載)