佐藤圭一は会社勤めをしている、いわゆるサラリーマンだ。特に変わったこともなく、同じようなことの繰り返しで日々を過ごしている。仕事はルーチンの繰り返し… 出世の見込みはないが、特に出世したいとも思っていない。妻と高校生の娘は二人で買い物に行ったりと仲がよさそうだが、自分にはそっけないような気がしている。心の中では不満だらけだが、特に誰に言うでもない。口に出したところでどうせ大した影響などないのだ。
ある日の朝、出社前に鏡を見た圭一は、薄くなってきた頭を見て小さくため息をついた。
「髪も人生もすり減るばかり、か…」
そんな圭一の楽しみは昼休みの食事だ。誰に気兼ねすることもなく好きなものを食べて、ゆったりする時間。会社に戻る道すがら、ふと理髪店に目が止まる。いつも閉まっているように見えたが、その日は「営業中」の札がかかっていた。昼休みも残りわずかなのに、圭一は何かに引き寄せられるように入っていく。
店内は古めかしいが、そこはかとなく高級感が漂っていた。艶のある革張りの椅子と、壁にはアンティークの鏡。理髪店なのにBGMはかかっておらず、時計の針の音が響いている。
「いらっしゃいませ」
現れたのは初老の理容師。真っ白な髪はきれいに整えられ、端正な顔立ちをしていた。黒目がちな目で圭一を見つめると、言葉少なに椅子に座るよう促す。圭一は言われるがまま腰を下ろし、鏡越しに理容師の動きを見つめた。
「今日はどんな風に?」
「ええと、清潔感がある感じでお願いします…」
そう言った瞬間、思わず鏡を見てぎょっとした。鏡の向こうの自分が、少し若返って見えるのだ。目の下のクマが消え、髪の毛も増えたような気がする。不思議に思ったものの、あまりにも見事な理容師の手さばきに見とれて、気づけばその手元を追いかけていた。
カットが進むにつれて、鏡の中の自分はさらに変わっていく。昔のような若々しい顔だし、髪の毛もふさふさだ。20代の自分を思い起こすような姿に圭一は驚き、思わず目をこすった。だが、鏡の中の姿は変わらない。
「気づいていらっしゃるようですね」
理容師が薄笑いを浮かべながら言う。
「こちらの鏡には ”なりたい自分” 、お客様が望んでいる姿が映し出されるんです」
圭一は、自分が若い頃の姿を望んでいたのかと気恥ずかしく思いつつ、鏡に映る自分に見惚れていた。これが本当の自分だったら…、そう思っていると、突然鏡の中の自分が口を開いた。
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