人面犬 日本中の犬が人の顔をしているように見えた夏
1989年から1990年にかけて、日本中を「人間の顔をした犬」が席巻しました。目撃情報にはだいたい決まったパターンがありました。夜中のサービスエリアやガードレールの脇に犬がいて、よく見ると人間の顔をしていた。目が合ったら「ほっといてくれ」と言って走っていってしまった。中には時速100kmで横を走っていたなんて話もありました。
人面犬の最大の特徴は、顔がおじさんだということです。若い女性や老人の顔だったという目撃談はなく、なぜか人面犬は疲れた中年男性の顔だったという証言ばかりでした。そしてもう一つは、人面犬は人間に危害を加えないということ。ただ放っておいてくれと言うだけで去っていきます。よくある都市伝説とは明らかに違うタイプです。
このブームには仕掛け人がいたとされています。ライターの石丸元章は雑誌Popteenの編集部と手を組んで読者投稿に手を加え、人面犬の話を載せたと告白しました。人面犬は1989年9月にフジテレビ「パラダイスGoGo!!」で紹介され、噂は一気に全国区になりました。
ただし石丸自身も認めているように、人面犬そのものは彼が生み出したわけではありません。ある大学の都市伝説サークルが噂の伝播速度を調べる実験として、白衣を着て小学生に「研究所から人間の顔をした犬が逃げたんですが、見ませんでしたか?」と聞いて回ったという話もあり、人面犬の出どころは不明です。人面犬が言う「ほっといてくれ」は白衣の大学生がアドリブで言った言葉が元だという話まであるのですが、真偽は定かではありません。仕掛け人を名乗る人間が何人もいるのにどれも決定打に欠け、都市伝説の起源そのものが都市伝説化しています。
同時期に「人面魚」も話題になりました。山形県鶴岡市の善宝寺の池で発見された人間の顔を持つ鯉はテレビで何度も放送されました。こちらは鯉の模様が人の顔のように見えるだけですが、人面犬ブームと完全に連動したものでしょう。人面犬のシールやキーホルダーが大量に作られ、駄菓子屋に並びました。怖いはずのものがいつの間にかゆるうグッズになるというのは昭和・平成オカルトの特徴です。ちなみに人面魚は現在でも何匹か池にいるそうです。
実は「人間の顔をした犬」の歴史は江戸時代まで遡ることができます。石塚豊芥子の『街談文々集要』には、文化7年(1810年)に江戸の田戸町で人間そっくりの顔をした子犬が生まれ、見世物として両国で公開されたところ大群衆が押し寄せたと記されています。木戸銭は一人12文でそば一杯分よりちょっと安かったようです。200年前の江戸っ子も人面犬に夢中だったんですね。
人面犬ブームが起きたのは昭和が終わって平成が始まった直後、バブル経済が崩壊する空気感があった時期です。疲れたおじさんの顔をした犬が高速道路を走るというのは、深夜くたくたになるまで働いたサラリーマンたちがタクシーで帰っていた姿に重なるのではないでしょうか。都市伝説は時代の空気を映す鏡だとよく言われますが、人面犬ほどはっきりした例は珍しいかもしれません。
バブルが崩壊してからずいぶん経ちました。誰も傷つけず、ただ「ほっといてくれ」と言って走り去った人面犬は今、どこを走っているのでしょうか。