あなたが暴徒に変わる時 群衆心理とデマのメカニズム
理性はなぜ集団の中で蒸発するのか
私たちは普段、自分を理性的で常識がある人間だと無意識に信じている。だが「群衆」という大多数の群れに飲み込まれたとき、その信念は脆くも崩れ去る。個人の意思は退行し、集団としての異様なエネルギーが優勢になるのだ。心理学者ギュスターヴ・ル・ボンが提唱した「群衆心理」とは、人間の精神構造が一時的に「退行」し、原始的な本能が優勢になるプロセスを指す。
没個性化と責任の分散、ルシファー・エフェクト
群衆の中に身を置くことで人間には「匿名性」という隠れ蓑が与えられる。すると自分一人が責任を問われることはないという無意識の安心感が生まれ、道徳心や自制心を麻痺させていく。これを心理学では「没個性化」というが、心理学者のフィリップ・ジンバルドーが行った「監獄実験」が有名だ。
この実験では男子大学生24人を看守役と受刑者役に分け、大学の地下に作られた模擬監獄で2週間の集団生活を送らせた。当初は「役割を演じて」いたが、看守役に制服とサングラスが与えられ、受刑者は名前ではなく番号で呼ばれるという「没個性化」が進むにつれ、彼らの自我は急速に変容していった。看守役は与えられた権力に酔い、受刑者に対して腕立て伏せを強要、トイレの使用を制限、素手で便器を洗わせるなど精神的・肉体的な屈辱を与える。あまつさえジンバルドー教授自身も「刑務所長」という役割に飲み込まれていったという。
受刑者役が情緒不安定や錯乱状態に陥ったため、この実験はわずか6日間で強制終了となった。ジンバルドー教授は、この現象を「ルシファー・エフェクト」と名付けた。人間は個としての名前や顔を奪われて特定の役割を与えられると、驚くほど簡単に残虐な行為に手を染める。集団が大きくなればなるほど責任は分散され、個々の倫理的ハードルはより低下していくというものだ。
デマが繁殖する公式と脳のジャック
さらにデマという発火剤が投下された場合、事態はより破滅的な方向へ加速する。特に災害時や社会不安が広がっているような時期には、人間の脳は情報の曖昧さによる強いストレスを回避するため、真偽を問わず納得しやすい物語を求める。心理学者オルポートとポストマンが定義した「デマの公式(R≈i×a)」によれば、流言(R)の流布量は、対象の重要性(i)と情報の曖昧さ(a)の積によって決まる。つまり、自分にとって重大な関心事なのに真実がわからないという状況はデマが繁殖する下地となる。一度火がついたデマは、脳内の感情を司る扁桃体をダイレクトに刺激し、論理的思考を司る前頭前野の機能をジャックしてしまう。これでは冷静な思考など望むべくもない。
個であるための防衛策
現代社会という情報があふれかえった状態から個としての自分を守るためには、あえて群衆から物理的・精神的に距離を置く必要がある。SNSで流れてくる衝撃的な告発や勧善懲悪の物語に目を奪われる前に、その情報のソースが公的機関や当事者の直接発信などの一次情報かどうかを検証しなければならない。暴走する群衆から自分を切り離すためには、自分が考えたことか集団の熱にあてられているのかを認識するだけの冷静さが求められるだろう。