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エメラルドタブレットを「翻訳」した男 カルト教祖が作り上げた石版

 エメラルドタブレットという名前を聞いたことがあるでしょうか。錬金術の源泉、ヘルメス思想の核心、「上なるものは下なるものと同じ」という有名な言葉の出典として、スピリチュアル系の文脈ではよく見られる文書です。

 ですが、日本で「エメラルドタブレット」として流通している本が1930年代にアメリカで書かれた創作だということはご存じでしょうか。どちらも「古代の叡智」として出版されています。

1920年代アメリカのオカルトブーム

 この創作ができた背景を理解するには、20世紀初頭のアメリカのオカルト的熱狂について知る必要があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、西洋では神智学運動が大きな影響力を持っていました。マダム・ブラヴァツキーから始まったこの思想は、アトランティスやレムリアという失われた大陸の存在、超人的な霊的進化の段階、秘教的な宇宙論を広く普及させました。知識人から一般市民まで、人々は「古代には現代人が失った高度な文明と叡智があった」という物語に惹きつけられていました。

 それと同じ頃、H.P.ラヴクラフトの怪奇小説が地下人気を集めます。古代の邪神、地球内部に潜む異形の種族、失われた文明の遺物—ラヴクラフトの作り上げたフィクションの世界観は、神智学的な「失われた古代」の物語と共鳴するところがありました。オカルトと創作の境界が曖昧な時代だったと言えます。

 クロード・ドギンス、後にモーリス・ドーリルと名乗るこの男は、そんな時代に育ちました。

ドーリルという男

 1898年生まれのアメリカ人、本名クロード・ドギンス。若い頃から神智学に傾倒し、1930年にコロラド州デンバーでブラザーフッド・オブ・ザ・ホワイト・テンプルを設立したその人です。この教団は、神智学やニュー・ソート、東洋神秘主義を独自に混ぜた宇宙論を展開していました。

 ドーリルが語る宇宙観は壮大でした。地球の内部には高度な地下種族が住んでいる、アトランティスは半霊半物質の二重構造を持っていた、人類は霊的進化の段階にあって正しい知識を得た者だけが次の段階へ進める—こうした教えはドーリルの著作と講義を通じて信者に伝えられていきました。

 彼はロサンゼルスで2人のアトランティス人と出会い、マウント・シャスタの地下洞窟に連れていかれたとも主張しています。やがてドーリルはギザの大ピラミッドを訪れ、アトランティス人の神トートが残したエメラルドの石版を発見したと主張し始めます。

誰も見たことがない石版

 これには根本的な問題があります。ドーリルが「翻訳した」と言うまで、このエメラルドの石版はどこにも存在しなかったのです。神話、伝承、学術文献にも一切登場していません―ドーリルが「発見」する以前の記録がまったくない「遺物」でした。

 テキストには蛇頭の古代種族、アトランティスの地下文明、宇宙的な邪悪との戦いなどのモチーフが並びます。研究者のジェイソン・コラヴィートは「ラヴクラフトの小説からの盗作」だと指摘しました。ドーリルはラヴクラフトの『ダンウィッチの怪』や『ティンダロスの猟犬』などの作品から影響を受けたとされており、創作のモチーフが重なっています。

 出版の経緯も不自然でした。このテキストは正式に出版されたわけではなく、ミメオグラフ(謄写版)で刷られて信者の手に渡りました。石版の枚数も後になって13枚から15枚に増えるなど、「古代の原典」であるにもかかわらず内容が変遷していきました。

黙示録カルトへ

 ブラザーフッド・オブ・ザ・ホワイト・テンプルは戦後になるとその様相を変えます。1950年代に入るとドーリルは核戦争による黙示録的なビジョンを伝え始め、信者たちはコロラドの山中に集落を作って暮らし始めました。「古代の叡智を伝える教団」は事実上のサバイバリスト・カルトとなりました。

 ドーリルは1963年に亡くなりましたが、『The Emerald Tablets of Thoth-the-Atlantean は現在も出版され続けており、YouTubeではこのテキストを「古代の真正な文書」として紹介する動画が多数存在します。

なぜ古代文献と混同されるのか

 『エメラルドタブレット』という名前そのものは実際の古典文書に由来し、ドーリルはその権威を利用して自分の思想に箔をつけました。タイトルが同じである以上、混同する人が出てくるのは当然のことです。

 さらに、ドーリル版『エメラルドタブレット』はページ数が多いうえに物語として読みやすく、宇宙論的なスケールがあります。文体も詩的で「難解だが深い」というイメージを与えます。本物のエメラルドタブレットは拍子抜けするほど短いため、神智学的な世界観に慣れている人にとってはドーリル版の方が「本物らしく」見えるのです。

 では、その「本物」とは何でしょうか。

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