ヘルメス・トリスメギストス「三重に偉大な者」とは
ヘルメス・トリスメギストス(Ἑρμῆς ὁ Τρισμέγιστος)。ギリシャ語で「三重に偉大なるヘルメス」という意味の言葉です。この言葉は意味深な名前として錬金術や占星術、神秘思想の歴史の中にたびたび登場してきました。エメラルド・タブレットの著者とされたり、錬金術師たちの守護者と仰がれたり、ルネサンス期のヨーロッパを震撼させた人物、あるいは存在として知られています。
しかし、その「ヘルメス・トリスメギストス」とは一体何者なのでしょうか。
二柱の神の融合
ヘルメス・トリスメギストスの起源は、二つの文明で信仰されていた神が融合したことにあります。ギリシャ神話のヘルメスは旅人の守護者や死者を冥界へ導く案内人プシュコポンポスとして知られ、言葉と知恵の神でもあるトリックスターです。もう一柱は古代エジプトのジェフティ(ḏḥwtj、ギリシャ語でトート/Thōth)。書記の神、知恵と文字の発明者、マアト(Mꜥꜣt)という真理・秩序を記録する存在でした。
アレクサンドロス大王の征服でギリシャ文化がエジプトに入りこみ、この二柱の神が同一視されていきいます。プトレマイオス朝のアレクサンドリアではギリシャ哲学とエジプト神学が混ざり合い、「ヘルメス=トート」は次第に神という位置づけから「太古の賢者」に変質していきました。
「トリスメギストス(三重に偉大)」という称号は、ジェフティがエジプト語で「アア・アア(ꜥꜣ ꜥꜣ)=偉大なる偉大なる者」と呼ばれていたことが由来だと考えられています。ギリシャ人がこの称号を翻訳するときに「二重に偉大」を「三重に偉大」に格上げしたのか、もしくは錬金術・占星術・テウルギア(神への祈り方=魔術)という「三つの知恵の師」という意味だったのかは、研究者の間で見解が分かれています。
コルプス・ヘルメティクム 「ヘルメス文書」とは
ヘルメス・トリスメギストスの名前で書かれた文書群は、総称的に「ヘルメス文書(Corpus Hermeticum/コルプス・ヘルメティクム)」と呼ばれています。
これらの文書は紀元1~3世紀頃、ギリシャ語を使ってエジプトで書かれたと考えられています。内容は、宇宙の成り立ち、神と人間の関係、魂の上昇、物質と精神の関係など、哲学的・宗教的なテーマとなっています。ヘルメスが弟子のアスクレピオスやタト/タートなどに教えるという形式で、『ポイマンドレス(Poimandrēs)』と題された創造の啓示についての章が特に有名です。
ヘルメス文書は長い間エジプトの太古の知恵として扱われてきました。ルネサンス期にフィレンツェのコジモ・デ・メディチがこの文書のギリシャ語写本を手に入れ、人文学者マルシリオ・フィチーノに翻訳させたのは1463年のことです。フィチーノはプラトンの著作の翻訳を中断してヘルメス文書を優先しました。それほどこの文書は「モーセやプラトンよりも古い、人類最古の知恵」だと信じられていたのです。
ヘルメス文書で投げかけられている問いは、私たちの意識の前提をひっくり返すトリガーとなるようなものです。例えば「人間とは何か、神とは何か、そして両者は本当に分離しているのか」—この神は人格神ではなく、万物の源=ヌース(知性)に近いものなので、本質的に「観測している自分はどこに属しているか」、自分が物質側なのか認識そのものなのかを揺さぶります。こういった存在論だけでなく、宇宙論、認識論、人間の二重性などが含まれ、「人はどのようにして再び知る状態に戻るのか」という無知の解除に関わる内容もありました。ちなみにヘルメス文書では「想起(アナムネーシス)」がその答えになっています。