「目覚め」という言葉の歴史 覚醒とはどういう状態を指すのか
スピリチュアルのSNSやブログでは、「目覚めた」「覚醒した」といった言葉がよく使われています。でも、目覚めたというのは実際何を意味しているのでしょうか。今回は覚醒という概念が本来どれほどの重みがあるものだったのか、その歴史を見ていきたいと思います。
ブッダ 「目覚めた者」
「目覚め」という意味がそのまま名前になったのがゴータマ・シッダールタです。シッダールタは後にブッダとなりますが、ブッダという言葉はパーリ語で「目覚めた者」を意味し、目覚めた内容を菩提(ボーディ)と言います。
彼が菩提樹の下で至った「目覚め」の内容は、快適な精神状態を指すものではありません。初期仏教の文献によれば、目覚めたとは苦(ドゥッカ)とは何かという本質を見抜き、苦しみの原因(渇愛/タンハー)を知り、苦の消滅に至る道(八正道/アッタンギカ・マッガ)を体得したことを意味します。
ブッダの目覚めには「生の本質は苦」だという認識が含まれています。菩提とは決して心地よい体験ではなく、現実がどう作られているのかを直視するものでした。目覚めた状態が快い状態とは限らないという点で、現代のスピリチュアルで言われている「覚醒」とはかなり異なったものだと言えます。
グノーシス 認識による救済
古代地中海世界にはグノーシス主義と呼ばれる宗教運動がありました。紀元1~4世紀に栄えたこの運動で、救済の鍵となるものはそのまま「グノーシス」、認識や知とされました。
グノーシス主義の考え方では、私たちが住む物質世界は不完全な創造者デミウルゴスによって作られた牢獄です。人間の中には本来の神性の火花が閉じ込められていて、その火花に気づくこと — 自分が何者かを認識すること — が救済であり目覚めを意味します。
ブッダの覚醒と同じように、グノーシスの目覚めも心地よい体験とはされていません。物質世界が牢獄だと認識することは、ある意味で絶望の始まりだと言えるでしょう。しかしその絶望を通過してこそ本来の自己に帰還できるのです。
スーフィズム 酩酊と覚醒
イスラーム神秘主義として知られるであるスーフィズムには「酩酊(スクル)」と「覚醒(サフウ)」という対となる概念があります。
酩酊とは、神との合一体験に圧倒されて自己を見失った状態を指します。合一体験の後に通常の意識に戻り、神との関係を保ちつつも冷静に現実世界と向き合う状態を覚醒を呼びます。9世紀のスーフィーであるジュナイド・バグダーディーは、覚醒は酩酊より高い段階だと説明しました。
覚醒は恍惚体験の後に来るものであって、恍惚体験そのものではないのです。陶酔の中にいる人は「まだ目覚めていない」ことになります。陶酔から醒めてなお神を見失わない者こそが「目覚めた者」とされるのです。