ロボットと人間

常識を疑え

 仏教徒ならずとも「末法の世ぞ…」と言いたくなるような世の中。子供時代になんとなく思い描いていた21世紀どころか、ちょっとした贅沢すらできない世界が来るとは思ってもいませんでした。

 そんな中で戦後ほぼすべての時期に政権を担っていた自民党は大幅に議席を減らし、国民はこれまでの政治家や省庁(今は主に財務省ですよね)にいい加減にしろと突きつけました。おとなしく税金を払い、そこまで大規模なデモなどをするわけでもなかった穏やかな日本人は、おとなしく確実に反旗を翻したわけです。

 メタフィジックスの世界では、そこから先に進むためにすべてを疑わなければならない時期があります。メタフィジックス、形而上学は「自分とは何か」「真理とは何か」を突き詰める学問なので、「果たして本当にそうなのか?」と考えるのはそりゃそうなんですが…。

 疑う対象は、とどのつまり「すべて」。個人的な例になりますが、私の場合「この世界はどうしてこんなふうに戦ってばかりなんだ?」というところから始まり、貨幣の発明がいけないんだ!とか一神教がおかしいんだ!など、その時その時で深掘りしたいことが出てきました。その結果古代宗教や文字、シャーマニズム、UFO云々など、まあとっ散らかりながらよろよろやることになったんですが…。

 少なくとも、三次元的な=現実的なちょっとした望みを叶えられるようになるには、自分が特に不満のない状態…ネガティブな状況に遭遇しても、そこに気持ちを持っていかれない状態が必要だということは理解しました。極端に言えば「人間関係や社会など、自分だけではどうしようもないことは考えても無駄」と思える状態ですが、これはエネルギーが無駄に使われないことに繋がります。

 そのために必要なのが「常識を殺す」ことです。私たちは生まれたときから親や社会に「~してはいけない」と教わり、そういうものなのかとインプットされてきました。良し悪しではなく、人間はコンピューターと同じように外部からいろいろな概念をプログラムされて育っていきます。その概念の中にはそもそも不要だったり、今の自分にはふさわしくなかったりするものが多々あるので、要不要を判断のために常識を疑おうというわけです。

 「正しさ」は、立ち位置や段階、状況などによって変わるもので、不変ではありません。ですのでその時々に応じた「自分」の常識を自分自身で作ることになります。誰かや何かにプログラムをインストールされたロボットのように生きるのではなく、自分自身の頭で考え、目で見て、足を動かして判断することでより自由度は高まります。

 本に書いてあることが100%本当だと思っていませんか? 上司の言うことがおかしいと思っても心を殺して従っていませんか? 自分より力がある人の言葉は絶対だと無意識に思い込んでいませんか? 対立している一方の意見だけを聞いて、それが正しいと判断していませんか? SNSで広がった陰謀論を根拠も調べずに信じていませんか? お金を持っていれば幸せでしょうか? 神は絶対的存在ですか? 日本はほかの国より霊的に進化した国ですか? 天皇って何ですか?

 現状に納得がいっていないなら、ぜひ常識を疑い始めてください。私たち一人一人が「普通」や「常識」の枠を超えることで、社会や世界といったより大きな場が個人にとってよりよいところなるはずです。私たちは本来、もっと自由な存在です。

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