ある程度の年になったら、多くの人が「若かった頃はよかった」と考える。だがもし、人間が「あの時代はよかった」を何千年も繰り返してきたのだとしたら、現在をどういう時代と呼べばいいのだろう。古代からの時間が劣化していった「すっかり良くなくなってしまったもの」とでも言えばいいのだろうか。
宗教や神に対する概念についても「あの頃はよかった」ということになっている可能性はどうだろう。面倒な儀式をやめて簡素化したり、時代に合わないと判断した内容を省いたりした結果、現代の宗教や人々は神に繋がれなくなってしまったということはないだろうか。かつて地上に神がいたことは、世界中の神話に残されている。
私たちは、子供の頃から人と競争することを教えられる。社会がそういう枠組みなので、それは生きていく上では必須の学びだ。だが、その「社会」のあり方について考えたとき、私たちは幸せに暮らしていると言えるだろうか。世界中どこにいても同じチェーンのコーヒーやハンバーガーが手に入り、ハリウッド映画を見ることができる。夜になっても町の灯は煌々と輝いていて、始発電車まで時間をつぶす場所もある。それは便利で文明的な生活と言えるのかもしれない。でも、私たちはそんな生活と引き換えに何を失ったのだろう。
将来に希望が持てない若者が闇バイトに引きずり込まれ、老後に希望が持てない世の中。人身事故で電車が止まるのも珍しくはない。そして子供の頃からの競争に「勝って」いわゆるいい大学… 偏差値が高く大企業に就職しやすい大学を出て、一生のほとんどを会社で過ごす生活が始まる。そんな暮らしの中で過去を想うことはノスタルジーや退行に過ぎず、不便さはまるで悪いものであるかのように扱われてきた。
私たちは「昔はよかった」と言う。にもかかわらず、昔よりさらに便利な暮らし、より享楽的な暮らしをするのが幸せだと思い込まされ、過去を振り返るのを忘れてここまで来てしまった。そしてコロナと名付けられたウィルスによってそれまでの「普通」を失い、新しい道が見えずにいる。政治やイデオロギーを異にする人たちのせいにしたくても、これ以上どうあがいていいのかわからなくなっている。
本来、人間にとっての幸せは経済的な豊かさという単一的な指標で表せるはずがない。ある人は楽器を弾いているときが、ある人にとっては家族と海辺で朝日を眺めるときが、また別の人は山登りが、ある人は人の笑顔を見るのが… と、自分の魂が震えるような多幸感を感じるポイントがあるはずなのだ。なのに私たちは長い時間をかけて、お金と引き換えに何かを手に入れることだけが幸せだと思い込まされるようになった。
あまつさえ、お金や名声があればその人は「えらい」とまで思う人間まで出てきた。
では、私たちはどうすればいいのか。まず立ち止まり、その瞬間の感情に耳を傾けること… 自分を満たすものを確かめ、世間や他人の価値観に惑わされない時間を取ることが大切なのではないだろうか。他人を羨んだり攻撃したりする必要もなければ、卑屈になる必要もない。
目の前の美しさや自分独自の喜びを取り戻せば、私たちは個性的な「幸せ」を追求できるようになる。それぞれが社会のピラミッド構造を壊す力… 自由という力を持てば、次の世代は今より少しだけ「いい時代」を送れるようになるはずだ。