私たち人間は、長い時間をかけて「お金と引き換えに手に入るものが幸せのための道具である」と思い込まされるようになった。悪意から、陰謀からではなくても、その時代時代で多くの人を率いる、もしくは影響力を持つような立場の人間たちがその役割を果たしてきた。そう言うと、多くの人は政治や教育を頭に浮かべるのではないかと思う。だが、それより大きな影響力を人々にもたらした枠組みがある。宗教というイデオロギーだ。
世界には規模の大小を問わず、無数の宗教が存在する。中には真実を追い求めようとするものもあるはずだしあってほしいと思うが、特に日本では宗教と聞くと「多額の布施を要求される」「神を騙ってインチキばかり言っている」などという、どちらかと言えばマイナスのイメージを持つ人が多いのではないだろうか。
霊能力者や占い師など、目に見えない世界を扱う人間は無償で奉仕すべきだと言う人もいるくらいで(気軽に「見てよ」と言われたことのない占い師は少ないと思う)、それが宗教という形を取って集金…となると、税金のこともあってより反感を感じるのだと思う。
オウム真理教の事件では「誰も救われていない」とよく言われていたが、オウムに関する本を片っ端から読んで思ったのは、霊的な能力…特別な力を得て、社会を自分たちの思い通りに動かしたいというエゴが彼らを動かしていたということだ。超自然的な力を得る人間が増えたら自然に社会はよくなるという原因-結果ではなく、社会を動かすために超自然的な力を得ようとするという逆のことが起きてしまった。
超自然的な力は、古今東西言われてきているように神との合一とか自己を超えるとか、そういったエゴの消滅とともに現れてこそ役に立つものであって、自分を見つめることなく超自然的な力を得たと感じたとしたらそれはある意味で悪魔的な、エゴに基づいた結果しか齎さない力であり、おそらく地球においては制限がかかっている、いわば限界のある力ではないだろうか。
私は十字軍の遠征について習ったとき「”右の頬を打つ者に左の頬を向けよ“(※注)はどこ行った」と思ったが、宗教の違いによる戦争は歴史の中ではなくまさに今起きている。仮に全知全能の神という存在がいたとして、それは自分を信じるもの以外は死んでも構わない、と思うような偏狭な存在だろうか。神の教えとは歴史の中で、為政者たちの都合によって歪められてきた「宗教」なのではないだろうか、という疑問をずっと持ち続けてきた。
※この言葉についてはいろいろな解釈がある。
例1. 右の頬を打つには右手の甲で打たなければならず、より打ちやすい左の頬を差し出すと言うことで、復讐を戒めた言葉である
例2. 当時は奴隷を殴るときに手のひらを使うと穢れると言われていたので、殴りやすい左の頬を向けてわざとそう仕向けることで対等な立場に相手を引きずりおろす意図がある
例3. ぶたれたからぶつという、悪に悪を返すのではなく、抗議する・その場から立ち去るなどよりよい形での解決を目指すよう教えた言葉である など
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