旧約聖書の中の出来事と古代エジプトの神話・寓話、メソポタミアの神話など、世界中の神話の一形態はとても似ている。混沌や原初の海から世界が生まれ、洪水が起こり、生き残った人間が現在の人間へと繋がっているという系統だ。この世界を作ったいわば創造主は、それぞれ「YHWH」であり「ヌンから生まれた意識・アタムの分身であるラー」であり「ナンム(ウル第三王朝からはティアマトと呼ばれる、すべてが含まれた原初の海)の命を受けたエンキ」だ。
聖書では最初の人間としてアダムとエヴァ(イブ)が登場するが、古代エジプトの文書ではアタムという原初の混沌(ヌンとヌウネトで表される男性原理と女性原理、まとめてヌンと呼ばれる)から生まれた存在が登場する。アタムはラーの化身であり、「完全なもの」という存在だ。ヘリオポリス系統の神話では、人間はラーの涙から生まれたとも言われる。メソポタミアの各国々では、ナンムから生まれた数々の神の中のエンキがナンムと共に泥から人間を作ったとされる。中国、特に苗族では女媧と伏義という蛇の体を持った男女が人間を作ったとされるが、女媧は混沌の中の女性性、伏義は男性性を表している。
これに対し、YHWHの宗教ではYHWHが絶対神であり、混沌…男性原理と女性原理が入り混じったものから生まれたという部分がまるっと抜け落ちている。現在信じられている神の多くはこちらの系統から来ていて、これが一神教となって誤解を生んでいるのではないかと思う。ちょうどイエス・キリストが誕生した頃、ローマ帝国などの男性性優位社会、マッチョイズムが幅を利かせるようになり、世界の多くの国で男尊女卑的な志向になっていった。
量子物理学の研究が深まったことで、今まで「無」とされてきた空間、真空には計測不可能な何かで満ち溢れていることがわかった。いわば「何もなく、でも全てがある場所」だ。最先端の科学が解明しようとする真空や量子の世界と、古代神話が語る「混沌の海」は、同じものを指しているのではないだろうか。エジプト神話のヌンやメソポタミアのナンムが、目には見えないが存在する「すべての可能性を秘めた状態」を表しているのは明らかだ。
真空に満ちているエネルギーは「現実」を生み出す可能性を持ち、それは神話が伝える「創造」のプロセスに驚くほど似ている。古代の神話は単なる空想ではなく、当時の人々が知っていた宇宙の本質を表したものだという可能性があるのではないだろうか。古代はもしかしたら私たちが忘れてしまった何かを記憶していた人々が暮らしていた世界かもしれない。私たちは何を思い出さなければならないのか、また新たに獲得しなければならないのか…。古代を知ろうとすることで新たな視点を持つことができるかもしれない。