死せる母

死せる母 ─ ムンクが描いた「もうひとつの叫び」

5歳で母を失った少年

 エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch、1863-1944)といえば、何と言っても『叫び』のイメージが強い画家だろう。不安定な赤い空の下で耳を塞ぐ人物は、不安と孤独を象徴するアイコンとして世界中に知られている。だがムンクには、これとは別に「耳を塞ぐ人物」を描いた作品がある。『死せる母』、あるいは『死と子供』と呼ばれる絵だ。

 1868年12月29日、ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)。5歳のエドヴァルドは、結核に倒れた母・ラウラ・カテリーネ・ビョルスタッドを失った。軍医だった父クリスチャンは妻の死後、宗教に傾倒し、子供たちに地獄の恐怖を説いて聞かせるようになる。病弱なエドヴァルドは学校を休みがちになり、死と罰される恐怖の中で育った。

 そして14歳のとき、今度は最愛の姉ソフィーが同じ結核で死ぬ。父と弟も若くして世を去り、もう一人の妹ラウラは精神を病んで施設に入った。晩年のムンクは「病、狂気、そして死が、私の揺りかごを見守る黒い天使だった。それは生涯を通じて私につきまとった」と語っている。

「魂の絵画」

 1880年代、クリスチャニア王立芸術学校に通っていたムンクはある芸術家サークルに出入りするようになり、作家のハンス・イェーゲルと出会う。ハンスは「クリスチャニア・ボヘミアン」と呼ばれる急進的なグループの中心人物で、自由恋愛を説き、結婚制度を否定し、九つの戒律を掲げた。戒律の第一条は「汝、己の人生を書け」、第九条は「汝、自らの命を絶て」で、弟子が自殺したときには「ノルウェー初のアナーキスト的行為」と称賛したという。

 イェーゲルはムンクに、表面的な美しさではなく自分自身の心理状態を描く―「魂の絵画」と彼は呼んだ―を描くように勧めた。ムンクは「魂の日記」をつけ始め、自分の内側を掘り下げることに没頭する。1886年、姉ソフィーの死を描いた『病める子』の発表は、ムンク自身が「印象派との決別」と語る転換点となった。

繰り返し描かれた構図

 ムンクは生涯を通して母の死というモチーフをテーマに描き続けた。1893年から1899年にかけて、同モチーフには複数のバージョンが存在する。初期の作品は横長の構図で、病室全体が描かれていた。喪服の大人たちがぼんやりと立ち、手前には両手で耳を塞いでいる赤いドレスの少女。6歳だった姉ソフィーだとされる。

 1899年版では構図が大きく変わった。縦長のキャンバスから病室も家族も消え、ベッドに横たわる母とその前に立つ子供だけが描かれた。薄いブルーのドレスを着た子供は両手を耳に当て、見開いた目でまっすぐにこちらを見ている。恐怖でも悲嘆でもない、感情を押し殺したような静けさだ。美術史家のウルリッヒ・ビショフはこの変化を「ムンクの芸術的急進化」と呼んだ。死という絶対的な事実と対峙する子供だけを残すことで、作品はより普遍的な力を獲得している。

『叫び』の裏面

 「死せる母」に描かれた、耳を塞ぐポーズと見開いた目、歪んだ空間。この絵は『叫び』と驚くほど似ている。『叫び』が外に向かって放たれた叫びだとすれば、『死せる母』は内側に向けられた叫びだ。口を閉じ、耳を塞ぎ、目だけが何かを訴えている。声を出すことすらできない子供の絶望がそこにある。

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