レイキは日本発祥なのに日本で廃れた理由 海外で変容した霊気の100年
科学は何を言っているか
厚生労働省の「統合医療」情報発信サイト(eJIM)は、レイキについて以下のように述べている。
「レイキはいかなる健康上の目的においても、その有効性は明確に示されていません」 「そのようなエネルギーの存在を示す科学的根拠(エビデンス)はありません」 「レイキは一般的に安全であるように思われます」
つまり、「効くという証拠はないが、害もなさそう」というのが現時点での科学的評価だ。レイキに関する研究は存在するが、質の高いものは少なく、結果に一貫性がない。「リラックス効果を感じた」という報告はあるが、それがレイキ固有の効果なのか、プラセボ(思い込み)なのか、単に「人に触れてもらう」という行為の効果なのかは区別できていない。
一方で、アメリカやイギリスでは補完医療として病院に取り入れられている例もある。これは「治療効果が証明された」からではなく、「患者のQOL(生活の質)向上に寄与する可能性がある」「少なくとも害はない」という判断による。
科学的に効果が証明されていないことと、「まったく無意味」であることは、必ずしも同じではない。ただし、「科学では説明できない力がある」と主張するなら、その証明責任は主張する側にある。
なぜ人はレイキを求めるのか
レイキの科学的根拠が曖昧であるにもかかわらず、世界で500万人もの人が実践しているのはなぜだろうか。
一つには、現代医療への不満や限界がある。病院では「異常なし」と言われても体調が優れない。数値では測れない「なんとなくの不調」に、西洋医学は対応しきれないことがある。
もう一つは、「ケア」と「キュア」の違いだ。「キュア(治療)」は病気を治すこと。「ケア(世話)」は、治らなくても寄り添うこと。レイキのセッションでは、施術者が静かに手を当て、時間をかけて向き合う。それ自体が、忙しい現代の医療現場では得がたい体験かもしれない。人は「触れられること」を求めている。それは科学では測りにくいが、確かに存在するニーズだ。
「怪しい」と感じるのは健全だ
レイキが「怪しい」と感じられるのには、正当な理由がある。まず、統一された資格制度がない。数日の講習で「マスター」を名乗れる団体もあれば、厳格な修行を求める団体もある。料金も数千円から数十万円まで幅がある。この玉石混交の状態が、信頼性を損なっている。
また、一部の実践者が「レイキでがんが治る」といった過大な主張をすることがある。これは明確に有害だ。必要な医療を遠ざけることで、命に関わる事態を招きかねない。
「宇宙エネルギー」「波動」といった説明も、科学用語の誤用であり、批判的に見るのは当然だ。
私たちはどう向き合うべきか
レイキを「すべてインチキ」と切り捨てるのは簡単だ。しかしそれは、100年の歴史を持ち、数百万人が実践している現象を説明したことにはならない。一方で、「科学では説明できない力がある」と無批判に信じるのも危険だ。では、どう向き合えばいいのか。
事実と信念を分ける。「レイキでリラックスできた」は主観的体験であり、それ自体は否定されるべきものではない。しかし「レイキで病気が治る」は事実の主張であり、証拠が求められる。
代替ではなく補完。レイキを通常医療の「代わり」にするのは危険だが、「補完」― 通常医療と併用して心のケアに使う ― という位置づけなら、害は少ないだろう。
歴史を知る。レイキが「古代から伝わる神秘の技法」ではなく、20世紀に日本で生まれ、海外で変容して戻ってきたものだと知ることで、過度な神秘化を避けられる。
「霊気」が問いかけるもの
臼井甕男が鞍馬山で求めたのは、「安心立命」― どんな状況でも心が揺るがない境地だった。それは治療技術ではなく、生き方の問題だ。100年の旅を経て、「霊気」は「Reiki」となり、「レイキ」として日本に戻ってきた。その過程で多くのものが付け加えられ、多くのものが失われた。
しかし、人が「癒し」を求め、「触れること」で何かを伝えようとする行為そのものは、普遍的なものかもしれない。それを「エネルギー」と呼ぶか「プラセボ」と呼ぶか「愛」と呼ぶかは、視点の違いに過ぎない。
大切なのは、何を信じるかではなく、何を問い続けるかだ。レイキの歴史は、私たちに問いかけている。科学と信仰の間で、私たちはどう生きるのか。効くかどうかわからないものに、どこまで心を開くのか。そして、「癒し」とは本当は何なのか、と。