レイキのシンボルを刻んだブラックトルマリン

レイキは日本発祥なのに日本で廃れた理由 海外で変容した霊気の100年

 「レイキ」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。怪しいスピリチュアル。高額なセミナー。手をかざす謎の儀式。日本では「なんとなく胡散臭い」というイメージが先行するこの言葉、実は大正時代に日本で生まれ、海外で爆発的に広まり、逆輸入されて戻ってきたという数奇な運命をたどっている。

 世界の実践者は500万人以上。イギリスでは医療保険が適用される病院もある。アメリカでは看護学校の科目になっている例もある。それなのに発祥の地である日本では「怪しい」の一言で片付けられがちなのはなぜなのか。

 レイキの100年を追うと、そこには戦争、占領政策、文化の翻訳と変容、そして「科学とスピリチュアルの境界線」という普遍的な問いが浮かび上がってくる。

始まり 鞍馬山で「死ぬ覚悟」の断食をした男

 レイキの創始者は、臼井甕男(うすい・みかお、1865-1926)という人物だ。岐阜県山県郡谷合村(現在の山県市)に生まれた臼井は、公務員、会社員、新聞記者、実業家、政治家・後藤新平の秘書など、さまざまな職業を渡り歩いた。事業に失敗して莫大な借金を抱えた経験もある。そうした人生の浮き沈みの中で、彼は「人生の目的とは何か」という問いに取り憑かれるようになった。

 禅の道に入り「安心立命(あんじんりゅうめい)」― 天命に身を任せて心を動かさず、いかなる時でも落ち着いていられる境地 ― を求めて修行を重ねたが、どうしても悟りを得られない。悩み抜いた末に禅の師に相談したところ、こう言われたという。「一度死んでごらん」。

 1922年春、臼井は京都の鞍馬山にこもって断食を始めた。死を覚悟したものだったらしい。21日目の深夜、脳天を貫くような衝撃を受けて意識を失う。目覚めたとき、心身に満ちる爽快感とともに、彼は「宇宙と自分が一体である」という感覚を得ていた。

 山を下りる途中で石に躓いて足の爪を剥がしたが、思わず手を当てると痛みが引き、血が止まった。麓の食堂で出会った虫歯に苦しむ少女の頬に手を当てると、痛みが消えた。こうした体験から、臼井は「この力を広く世のために使いたい」と考えるようになる。

 同年4月、東京青山原宿に「臼井霊気療法学会」を設立。翌年の関東大震災では多くの負傷者を治療し、その名は広まった。全国に60もの支部ができ、「手当療法の中興の祖」とまで呼ばれるようになる。だが1926年、臼井は広島で脳溢血により死去。62歳だった。わずか4年の活動期間で約20人の師範(レイキを伝授できる資格者)を育て、その系譜は続いていくことになる。

ハワイへの渡航 一人の日系女性が運んだ種

 臼井の弟子の一人に、林忠次郎(1879-1940)という元海軍大佐がいた。退役後、東京に「林霊気研究会」を設立して治療所を開いた。

 1935年、一人の女性が林の治療所を訪れる。高田ハワヨ(ハワヨ・タカタ、1900-1980)。ハワイ生まれの日系二世だ。彼女は重い病気を患っていたが、林の霊気療法を受けて完治。その経験から弟子入りを志願する。当時、霊気は「日本国外の人間には教えない」とされていたが、林は彼女の熱意に折れ、伝授することを決めた。

 1938年、高田は林から最高位の「神秘伝」を受け、ハワイに戻ってレイキの普及を始める。タイミングは絶妙だった ― というより、皮肉だった。1941年、太平洋戦争が始まる。日系人への風当たりが強まる中、高田は30年間、表立った活動を控えながらも細々とレイキを続けた。

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