女神は不在から始まる
女神というものがいるらしい。どこの国にも、どんな時代にも。
イシス、アフロディーテ、ティアマト、フレイヤ、イナンナ、観音。こう並べるとさぞ立派な御前会議でも開けそうな面子だが、彼女たちは生まれた場所も時代も、てんでバラバラだ。そして人間は、あいにく彼女たちと出会う機会がない。なにせ、女神とは「欠けたものの代名詞」なのだ。
女神信仰が復活するとき、人間はたいてい疲れている。父性的なもの、構造、命令、理由、神の法—そういった構造にうんざりして、自分を包み込む毛布のような温もりを求め、彼女たちとコンタクトが取れないものかと”女神カード”に手を伸ばす。
それはちょうど、コーヒーをブラックで飲み続けていた人間が、ある日突然ミルクの香りに惹かれるようなものだ。理屈や秩序に耐え続けた人間は、その反動で甘さを信じたくなくなってしまう。それはほんの一瞬、現実から静かに逃避しようという試みでもある。
私たちはときに、過去を「柔らかく記憶しなおす」ことで現在を生き延びている。レムリアも、アトランティスも、ティアマトも、ある種の失敗した記憶の精霊化だ。
失敗に意味を与えようとするとき、「神」という存在が生まれる。女神とは消滅してしまいそうな思い出を神格化する儀式のことであって、つまりは回収できない過去に対する哀しくも美しい人間の在り方を反映しているのだ。
ところで、「女神は優しい」と思われがちだが、それは大いなる誤解ではないか。
イナンナは冥界に降りて自分の死体を吊るしてくれた夫を後に地獄に突き落とし、カリは死体の山に乗って踊り、グアダルーペのマリアは蛇を踏みつける。癒しどころか、彼女たちはたいてい破壊と喪失の女王である。そりゃあ優しいよ、彼女たちの慈悲が発動する頃にはみんな死んでるんだから。
だが私は、それでも女神が好きだ。
彼女たちは、いつも秩序の向こう側からやってくる。神殿の裏口。教義の抜け穴。静かに無視された余白から突然現れる。女神を信じるということは、すでに壊れた構造の中で、新たな自分を産み直す覚悟を持つということだ。それがどれほど狂気じみた行為か誰よりも知っているのは、たぶん彼女たち自身だ。
つまり、女神なんて、元々どこにもいない。いないからこそ呼ぶのだ。この現代という瓦礫の隙間から、あの名もなき、強く優しい力を。
その「呼びかけ」は何を意味するのか。まず、秩序という幻想を見抜くことだ。家族という構造、国家という幻想、会社という儀式。そんなものは必ずしも人間の幸福の土台ではないと認めること。それは反抗でも革命でもなく、ただ静かな明晰さである。
内側で繰り返される声にならない感情に言葉を与えなければならない。悲しみが怒りに、怒りが無関心に、無関心が虚無に変わる前に。女神はその先で待っている。誰かの期待ではなく自分の神話を生きているという事実を、形にして残すのだ。
そうすれば女神は各人の中に宿るだろう。おそらく、その姿は未だかつて誰にも見られたことがない。彼女は一人一人の生の中にしか現れないからだ。
今日、街を歩きながら、誰にも見えない女神に一礼してみるといい。誰かに手を振るように。それが誰でもない何かに届くなら、あなたはもう神話の中にいるのだ。