
霊的正統性が生む支配の系譜(3) 霊的正統性という支配構造の終焉
人間は古代から神を正当化のために利用することで社会秩序を維持してきた。王権、国家、宗教、そして現代のスピリチュアル業界も「自分たちは真実と繋がっている」というストーリーを使っている。ここで問題となるのは、それが支配のメカニズムとして働いているー神の名の下に、もしくは霊的な存在の名の下に他者をコントロールするようなケースだ。よく新興宗教やスピリチュアルで「洗脳する・される」という言葉が出てくるが、そういった状態を生んでしまうとしたら誰が幸せになれるのだろうか。幸せになるための宗教やスピリチュアルに力を奪われていいはずがない。
「人間は元々霊的な存在だった」という哲学は、古今東西の賢者と呼ばれた人々が伝えてきた。その人たちのほとんどが瞑想する必要があると言ってきたのは、瞑想を積み重ねていくとやがて自分の意識を観察できるようになるというのが理由だ。生活の中で一心不乱に瞑想をする時間を取っていると、ある日突然何もかもが腑に落ちる瞬間が訪れる。その瞬間目を大きく開けたかのように視界が急に開けて、自分という枠組みが外れる。そうなればしめたもので、あとは自然に霊的な支配のメカニズムに気づくようになる。霊的な存在を信じる・認知することと、霊的な世界に従属することは似ているようで全く異なるが、それは本当の意味で「自分自身」で考えるようになるかどうかの違いだと言えるだろう。元々霊性とは自分に属するものであって、考える力を他者に委ねるようなものではないはずだ。
神や目に見えない存在へ祈るという行為は、何らかの不思議な力を使うためにすることではない。してはいけないと言うよりは「したところで意味がない」と言う方が正確かもしれない。世界を支配したり望みを叶えたりといったエゴを満足させるための魔法は存在せず、最初の段階ではスピリチュアルに絶望するかもしれない。私を救ってくれる癒しの魔法も、天罰を与えることもできないのだから。だが満足感のある状態で生きるためには「自分で」世界を観測しようとする姿勢が大切で、自分の外側にある世界をコントロールしようとする前に自分自身を理解しなければならない。他者を操作したいという欲求を今はとりあえず放棄し、ただありのままの現実を認識する。そこには善悪も上下の序列もなく、祈りの対象は外側にある神ではなくなる。観測する行為自体が祈りになるのだ。
世界では複数の戦争や天災も多く、現在は混沌の時代にあると言っていいだろう。そんな中で人間の霊性はさらに進化していくはずだ。「正直者が報われる世の中」を創る最初の段階にある今、私たちは「神」と呼んできたものが何だったのかを改めて考え、再定義する必要があるのではないだろうか。そのためにまずは「信じる者」と「信じない者」を対立させるような二元論に基づいた方法ではなく、私たちは個が集合した一つの世界というプロセスなのだと理解すればいい。「神」の再定義を完了させた人間が増えていけば、やがて「神の名による暴力」は終わることになるだろう。

