カメラの奥で揺れた意識 マン・レイと二人の女性たち 境界の芸術家たちシリーズ
境界の芸術家たちシリーズ
マン・レイという芸術家
アメリカ人アーティスト、マン・レイ(1890–1976)。彼はカメラという装置を使って、目に見えない何かを銀塩の海に掬い上げようとしていた。シュールレアリスムやダダイズムにも関わり周囲から見れば立派な「芸術家」だったが、自分では芸術家とも写真家とも名乗りたがらなかった。「これは無意識がやったことだ」という言葉は、彼が自分自身のコントロールを超えた「他者の存在」によって存在をかき乱されていたかという告白のようにも思える。マン・レイにとっての創作は、関係性の中で生まれる「意識の変化」を像に結ぶものだったのかもしれない。
「私は芸術を求めてパリに来たのではない。パリにいる人々、彼らのやり方、考え方、見えない動き──そういうものに惹かれたんだ」—『Self Portrait』(1963)
彼の世界に石を投げ込み、波紋を広げた二人の女性。それがキキとリーだ。彼女たちとの日々は、マン・レイという表現者が他者の意識に浸食され、影響を受けた記録でもある。「自分の位置が変化する」という点で、マン・レイの芸術と恋愛は同じものだった。
キキ・ド・モンパルナス 意識を揺らす生身の重力
キキ・ド・モンパルナス、本名アリス・プリンは、二人が出会ったときすでに「モンパルナスの女王」だった。マン・レイはキキが放つ生身の存在感に圧倒される。彼女はよく笑い、泣き、その感情の揺れを躊躇なく夜の街に放散させていた。すでに多くのアーティストのミューズとなっていた彼女は、「ありのままの存在感」で名を知られていた。
カメラを構えるマン・レイの前で、キキはポーズを取らずただそこにいる。その強烈な存在感が場の空気や光が自然に形を決めていく。キキは何かを演じるのではなく、ただそこにいるだけでマン・レイの意識を揺さぶった。「構図は自然に決まっていくんだ」。マン・レイの意志はキキの重力に抗うことができず、彼はむしろそれを好意的に受け入れた。
『Le Violon d’Ingres / アングルのバイオリン』でキキの背中に描かれたF字孔は、マン・レイの構想から生まれたものではない。彼女の肉体の中に「すでにあるもの」をマン・レイが見出した、一種の物理的・霊的な視覚の結晶だった。
やがて二人の時間は終わりを迎える。「あなたは私を見ていない。写真を見ている」とキキは叫んだ。彼女は自分が二の次になることを許せなかったのだ。キキという熱源を失ったマン・レイの作品からは人物が消え、抽象表現が増えていく。彼の感情を震わせた「生々しい生の響き」は失われ、もう自然に構図やライティングが決まることはなかった。