カメラの奥で揺れた意識 マン・レイと二人の女性たち 境界の芸術家たちシリーズ
リー・ミラー 思考を反転させる銀色の視線
静かなアトリエの扉を叩いたのは、陶器のような肌を持ったモデルのリー・ミラーだった。「あなたの暗室を見せてほしい」。その一言が、マン・レイの情熱を再び呼び起こすきっかけとなった。それまで一方的にファインダーを覗く側だったマン・レイは観られる側に立たされ、キキの時にはなかった「互いの意識がぶつかる」という変化によって奇跡が生まれる。
暗室での作業中、リーが誤ってつけたライト。その光が印画紙に落ち、現実の構成原理が裏返る「ソラリゼーション」が誕生したのだ。マン・レイは「写真が私たちを反転させた」と言った。リーという鏡と出会ったことで、彼自身の内的世界が「ひっくり返された」ことを象徴する言葉だ。自分と同等、もしくは自分を凌駕する意識との対峙からソラリゼーションは生まれた。
やがてリー・ミラーも去り、マン・レイは『Larmes / 涙』という作品を発表する。頬にガラスの涙を置いた女性の視線は、見るべき相手を失ったマン・レイの孤独な祈りのように感じられる。彼の元に残ったのは「応答の欠落」だけだった。
二人の女性の意識の層 像はどう結ばれたのか
キキ・ド・モンパルナスとリー・ミラー。この対照的な二人を通して、マン・レイは自分自身の意識へと潜り込んでいった。制作スタイルが劇的に変化したのは、彼女たちの存在がマン・レイ自身の「異なる層」を動かしていたからに他ならない。
キキが揺さぶったのはマン・レイのアストラル層、感情だ。この層は他者の気配や感情という刺激にダイレクトに反応する、意識の表層エリアだ。キキの剥き出しの身体性、計算のない感情表現は、マン・レイの意識を動かした。「構図は自然に決まっていく」のは、この層での揺らぎがそのまま像として形を結んだ結果だった。キキという熱源に任せるだけで、マン・レイは意図や思考を飛び越えて「生」そのものを画像にすることができたのだ。
それに対して、リー・ミラーは彼のメンタル層、思考に楔を打ち込んだ。彼女は意志を持ってレンズを見返した。「見るはずの対象が同等の位置から自分を見返してくる」という異質な出来事は、マン・レイの観念や哲学、ついには写真の構成原理そのものを揺さぶった。ソラリゼーションという技術の、なんと象徴的なことか。リーという鏡がそれまでのマン・レイを「ひっくり返し」たという完璧なメタファーになっている。
変化する像と動かされる意識
彼女たちがモデルとなった作品は、構図や意図の差異以上にマン・レイ自身の意識の変容を克明に写し出している。彼は恋愛を撮影していたわけではなく、誰かと密に関わることで「自分」という存在が不可逆的に変化していくプロセスを記録していた。
関係が終わってその対象が物理的に消えても、その変容の痕跡は失われない。感情を揺さぶったキキ、思考を反転させたリー。マン・レイの制作には意識を変化させるトリガーとしての他者が重要だった。その作品は他者という不可抗力によって動かされた一種の波形図のようなものだったのかもしれない。