神秘和音に神を聴いた男 アレクサンドル・スクリャービン
境界の芸術家シリーズ
1961年4月12日。人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンを乗せたヴォストーク1号が地球を周回していたとき、ソ連国営放送は宇宙船に向けてある音楽を送信した。アレクサンドル・スクリャービン(Александр Скрябин, 1872-1915)の「法悦の詩」だ。
スクリャービンは43歳で死んだ。唇にできた小さな吹き出物が化膿、敗血症に至って命を落としたのだ。彼が最期に叫んだ言葉は「これは破局だ!」—未完の大作を遺して逝くことへの絶望だった。だがその46年後、彼の音楽は文字通り天に昇った。地上の重力から解き放たれた場所で「法悦の詩」が流れたとき、スクリャービンの夢は一つの形で成就したと言えるかもしれない。だが彼自身が構想していた「成就」は、これよりもはるかに壮大なものだった。
「私は神である」
スクリャービンの遺した手記には「Я есмь Бог、私は神である」という悪名高い一文がある。この言葉は長い間、彼の誇大妄想や精神的な不安定の証拠だと考えられてきた。だが神秘主義を学んでいる者にとっては決して傲慢な言葉とは言えず、むしろ究極の謙虚さの顕れだと言える。
イスラム神秘主義のスーフィズムには「ファナー / فناء」という概念がある。自我が完全に消滅し、神のみが残る状態だ。10世紀のスーフィー聖者マンスール・アル=ハッラージュ(منصور الحلاج)は「アナ・アル=ハック / أنا الحق、私は真理である・私は神である」と叫んだことで処刑された。ヴェーダーンタ哲学の「梵我一如 / अहं ब्रह्मास्मि、アハム・ブラフマースミ、我はブラフマンなり」も同じ境地を指す。ブラフマン(梵)とは宇宙の根源的実在、万物の源であり本質だ。個我(アートマン)がその宇宙的実在と同一だという宣言は自己を神格化しているのではなく、むしろ「自己」という幻想が消えた後に残るものを表現している。
スクリャービンが生きたロシアには「全一 / Всеединство、フセイェジンストヴォ」という思想があった。哲学者ウラジーミル・ソロヴィヨフ(Владимир Соловьёв)が体系化したもので、神・人間・宇宙は分離した存在ではなく、究極的には一つの有機的全体であるという世界観だ。もしすべてが神で相互に繋がっているとしたら、「私は神である」という宣言は狂気でも傲慢でもなく、単に普遍的な真実を認識したものにすぎない。
スクリャービンは別の手記で「私は瞬間であり、永遠を照らす。私は肯定である。私は法悦である」「私は神である! 私は無であり、遊戯であり、自由であり、生命である。私は境界であり、頂点である」と書いている。これを誇大妄想だと断罪するのは簡単だ。だが私たちの本質が神から分かれた∞分の1で、いつか∞である0=無に帰るのだとしたら—スクリャービンはそれを音楽によって引き起こそうとしていたのではないだろうか。