SNSボタン

安倍元総理銃撃事件に見る承認の歪み ”特別”を欲しがる人たち

 宗教が生んだ悲劇的な事件のひとつに安倍元総理銃撃事件がある。これが契機となって統一教会の問題が可視化され、宗教と家族の問題がクローズアップされた。犯人の家庭は、宗教に依存した母親の莫大な献金によって崩壊していた。苦しみを減らすための宗教は、いつしか献金を正当化する理由に入れ替わっていた。この「目的の逆転」は宗教に依存した人間に共通する現象だ。

 スピリチュアルでも同様に「あなたは特別」「使命がある」などの言葉が承認欲求を刺激し、期待と快感を司るドーパミンが分泌される。興奮作用を持つアドレナリン、優位性の感覚に関わるテストステロンが上がることもある。周囲から心配されて「波動が低い」などと言うのは、承認に伴う反応が現実を押しのけるからだ。自分を承認してくれる場所が人生の中心になり、現実との距離感が取れなくなっていく。宗教とスピリチュアルという表層が違うだけで、起き得る破綻の過程はよく似ている。

 承認欲求に関する歪みは霊的な世界に特有のものではなく、有名人が「一般人さん」と言うような場合も同じだ。彼らには周囲から特別扱いされる環境があるが、注目される・求められる経験の蓄積でテストステロンが増え、その状態を維持するためにアドレナリンが出る。そして日常的に興奮状態が続くと人間関係を上下関係で捉えるようになる。これは元々の性格に起因するわけではなく、人間が持つ生理的な適応反応のようなものだ。

 いじめられていた人が成功したら人が変わったというケースも同じメカニズムを持つ。ストレス状態が続くと、脳はストレスホルモンことコルチゾールを分泌する。そこから認められる状態に変化すると、抑圧の反動でドーパミンとアドレナリンが一気に跳ね上がる。それが「抑圧されていた優位性の回路」を急激に解放して「自分は特別になった」という強烈な感覚をもたらすのだ。これも生理反応として説明できる。

 ここで共通するのは「ある世界での承認」を社会全体での価値かのように見誤ることだ。宗教での評価はその宗教の中でだけ通用するものだし、ほかのケースでも同様にその業界内で認められたに過ぎない。限定的な価値だがその世界に浸っている人にとっては「社会全体」なので、そこでの価値を自分の本質的な価値と見做してしまう。そして家庭より宗教、現実よりスピリチュアル、ファンより業界内の権威者…となったら破綻が始まる。

 では、どうすれば現実を生きていられるのか。まずどこで承認されているのかを明確にすることだ。狭い世界での評価から自分を切り離しておけば、そこに飲み込まれにくくなる。一つのコミュニティでの評価は人生全体を承認するものではない。いくらスピリチュアルの世界で認められても、それで目の前の問題が解決されるわけではないのだ。

 もう一つはその世界とは別に日常生活の軸を持っておくこと。家庭、友人、仕事、経済面などの土台を見失わなければ極端な依存や歪みは防げる。承認される世界とは切り離した現実の軸があれば、承認されることで起きる反応は一つの現象だと思える。

 どんな世界にいても、人が「自分は特別だ」と感じるのは特別でありたいという潜在的な欲求と承認の刺激の組み合わせによるものだ。承認されたときに脳が出すアドレナリンやドーパミンは、本人の意識を超えて現実の感覚を変えることがある。承認を求めること自体が問題なわけではないが、現実との乖離を許容すれば問題を引き起こすだろう。

 この回路が残酷な形で働いたのが犯人の家庭だった。母親は「我が子を救いたい」という切実な願いを抱え、その心の隙間に宗教が入り込んだ。そして現実的とは思えない高額献金を続けた結果、「教団内で認められる自分」が最優先されるようになっていったのだろう。母親は本来なら家族に求めるはずの部分を教団に向け、ある意味で家族を捨てた。山上の妹が証言した「母の皮を被った信者」という言葉には、胸が痛むような切実さがある。

 正論に過ぎないことは百も承知だが、耳かき1杯分にも満たない脳内のホルモンが「現実」を歪める前に自分自身を観察することが大切なのだ。承認されたとき自分の身体がどう反応するか、どの瞬間に距離感が狂うか。それを把握できていれば、どこにいても自分を見失うことはないはずだから。

関連記事一覧