音楽は「心地よさ」のためにあるのか ― 聖なる音の力
知り合いの家に泊まりに行ったとき、もう寝ようと部屋を暗くしてから相手がふざけてグレゴリオ聖歌を歌い始めた。ラテン語も旋法も適当だったのだが、しばらくすると急に部屋の隅にあった延長コードのスイッチがチカチカと赤く点滅し始め、部屋の空気がそれまでと変わった。空気が重くなって何かが来たような…明らかにまずい状況で、慌てて歌うのを止めさせた。何が起きたのかはわからないが、私たちは「聖なる音楽」を適当に真似したらまずいということを学んだ。
いい音楽=心地よい音楽か
現代で「いい音楽」と言えば、耳当たりのいい音楽、リラックスできるような音楽を指すことが多い。スピリチュアル界隈でも「波動が高い音楽」は穏やかなヒーリング系のものばかりだ。作業用BGM、睡眠導入用、カフェミュージックなどは「邪魔にならない」ことが価値になっている。
だが音楽の歴史を遡れば、音楽は元々「聴いて心地よくなる」ためのものではなかった。それは人間の感情を揺り動かし、引きずり出し、変容させるものだったのだ。
グレゴリオ聖歌と8つの旋法
中世ヨーロッパの修道院で歌われたグレゴリオ聖歌は「教会旋法」という音階で作られている。現代の音楽がほぼ長調か短調の2種類なのに対して、教会旋法には8つの旋法がある。ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディアという旋法のそれぞれに正格と変格があり、旋法によって呼び起こす感情が違うとされていた。
どの感情を呼び起こしたいかによって旋法が選ばれた。それぞれの旋法が、荘厳さや悲しみ、歓喜、神秘などを感じるための通路を開く。音楽史家の皆川達夫は「キリスト教の神は言葉をもって語り、人間は言葉をもって神に接する。神の啓示は耳を通して伝えられる」と書いている。音が耳から入り、その人の内側を動かす。聖歌はそのための技術だったのだ。
100種類以上の感情を持つ音階
西洋の教会旋法が8種類なのに対し、中東のアラブ・トルコ音楽で使われる「マカーム(maqām)」はなんと100種類以上ある。しかも西洋音楽にはない「微分音」という半音よりさらに細かい音程を使う。西洋音楽に慣れた耳には「音程が微妙、外れている」ように聞こえるかもしれないが、それはその人が12音しかない世界に慣れているからだ。
マカームにもそれぞれ対応する感情があり、かつては演奏される時刻や天体まで決まっていた。9〜10世紀のイスラム知識人、キンディやファーラービーがこの体系を理論化している。彼らにとって音楽は娯楽ではなく、人間の内面に作用する技術だったと言えるだろう。音楽は感情を「操作する」ための精密な装置で、特定のマカームによって特定の感情を呼び起こすためのものだった。
シャーマンのドラム
シャーマニズムの世界では、音楽の力はもっと直接的に使われる。シベリアやモンゴルのシャーマンにとって、ドラムは霊界へ旅するための「乗り物」だ。一定のリズムで叩き続けることで意識の状態が変わり、日常とは別の次元へ移動することができると考えられてきた。アフリカやカリブ海の憑依儀式でも太鼓は欠かせない。サンテリアの儀式では「バタ」と呼ばれる聖なるドラムを叩けるのはアーニャのイニシエーションを受けた者だけだ。音で何かを呼ぶこと、音で人の意識を変えることには技術と責任が伴う。
民族音楽学者のジルベール・ルージェは『音楽とトランス』で、音楽が意識状態を変容させるメカニズムを分析している。リズム、反復、音量が組み合わされ、人を「ここではないどこか」へ連れていくのだという。
12平均律という「均一化」
17世紀以降、西洋音楽は大きく変わった。8つあった教会旋法は長調・短調の2つに整理されて「12平均律」が普及した。1オクターブを12の均等な音程に分ける方式だ。これによってピアノなどの鍵盤楽器が発展し、どの調でも自由に転調できるようになった。
便利になった代わりに、微分音は消えた。100種類以上あったマカームのような多様性も「長調・短調」の2種類に収斂し、音楽は「均一化」された。どこでも誰でも同じように演奏できるという再現性は高まったが、その代わり特定の感情に繋がるという機能は薄れていった。
「刺さる音楽」が持つ力
それでも音楽が感情を揺り動かす力は消えていない。誰にでも「刺さる音楽」— 理屈ではなく、聴いた瞬間に心臓を掴まれる音楽があるはずだ。涙が勝手に出てくる音楽や言葉にできない情動が動く音楽は、必ずしも心地よい音楽ではない。むしろ痛かったり、不安になったり、苦しくなったりする。
それでも何度もリピートしてしまうのは、その音楽が自分の中の「何か」と共鳴しているからではないだろうか。押し込めていた感情、見ないようにしていた部分、言葉にできなかった何か…を音楽が浮上させる。これは「癒し」とは異なり、鎮めるのではなく揺さぶり、抑えるのではなく引き出す。かつて聖なる音楽が持っていた力は、こういうものだったのではないか。
心地よさの先にあるもの
スピリチュアル界隈では「波動が高い音楽」が良いものとされているが、その「高い波動」の定義は大抵において「心地よい」「落ち着く」「眠くなる」と同義だ。だが本当にそういった音楽は「波動が高い」のだろうか。
自分の感情を揺り動かし、聴く前と聴いた後で何かが変わるような音楽。それは人によっても異なるだろう。ヒーリング音楽かもしれないし、ハードコアパンクかもしれない。グレゴリオ聖歌かもしれないがノイズミュージックかもしれない。感情を揺さぶるのにジャンルは関係ない。適当に歌ったグレゴリオ聖歌で何かが動いたように、音楽には本来「何かを動かす力」がある。心地よくさせる力ではなく、変容させる力だ。
だから自分に「刺さる」音楽を大事にしてほしいと思う。例え「波動が高い」とは言われないようなジャンルの音楽でも、あなたの中の何かを動かしているなら、それは本物の力を持った音楽ではないだろうか。