
現実を歪める神の回路 サルバトール・ダリとガラ・エリュアール
ポール・エリュアールとガラ
ガラはロシア出身で本名はエレーナ・イヴァーノヴナ・ジヤーコノヴァ、最初の結婚相手はダダイズムやシュルレアリスムを牽引した詩人のポール・エリュアールだ。自由奔放なガラはポールにとってインスピレーションの核となり作品の中では象徴的な存在となったが、二人の関係は芸術の中でしか完結しないものだった。エリュアールはガラを女神のように敬い、地上には降ろさなかった―彼の芸術は「言葉」という世界の内側にあり、ガラという存在は常に言葉という枠の中に閉じ込められていた。
ダリはその構造を反転させた。ガラを象徴から引き剥がし、召喚を起こすための外的な役割を与える。彼女を作品の中にとどめずにダリにとっての現実を写し取った絵画空間の中に収め、異質な何かを流れ込ませた。そして作品に描かれた彼女の姿を見た人間の意識に直接働きかけた。言葉ではなく、視覚を使って現実に影響をもたらそうとしたのだ。ガラの身体と視線を現実を構成している要素として組み込むことで、芸術の中に現実を割り込ませた。
ダリの視覚 霊的な装置としての絵画
「私は芸術をしているのではない、神を感じているのだ」-ダリの言葉だ。彼は自分を「私は観測される器で、そこに何かが降りてくる」と言い、1960年代以降には自身を「神の召喚者(mystic)」と呼ぶようになる。彼にとって絵は何らかの現象が起きた痕跡だった。
『ナルシスの変貌』では人間が石などに変化し、異質な形に組み替えられている。最初に書いた『茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』では、肉体が断片化されて建築の要素として組み立てられている。そこに描かれたのは「現実が異常な論理で再構成された場」で、ダリだけの歪んだ現実ではなくガラとの間に生まれた不可視の領域だ。「彼女が見ていなければ、ここには神はいない」というダリの言葉には誇張も演出もなく、彼にとって「描く」とは「ガラの視線を通じて神の通路を開く」ことだった。
ガラはただダリの近くに座っていた。新聞を読んでいたことも背中を向けたままのこともあったが、それでもダリの作品にはガラという存在が不可欠で、彼女がいなければ「今日は描けない」と作業をやめたこともあった。ガラがそこにいることが描くための絶対条件で、彼女を「私の世界の女神」「霊の入口」と公言していた。彼女が目を伏せれば筆は止まり、視線が戻ればまた空間が開いた。
絵に封じられた異物 ガラの沈黙
2人で描いた絵は霊的な召喚の場でもあった。ダリの作品にはガラが何度も登場するが、彼女は何も語っていない。視線は曖昧で感情の痕跡もなく、絵の内側に吸い込まれたかのように置かれている。彼女は人物というより現象の一部として扱われているように見える。
『レダ・アトミカ』ではギリシャ神話の女神レダに模されており、その身体は空中に浮き肌は異様なほど滑らかだ。およそ人間らしさはなく、宇宙的な力の通過点のように描かれている。ガラは女神へと昇華したわけではなく、現実を歪めるための触媒になったのだ。ダリはガラの声を作品の中に持ち込まなかった。制作中にガラが話しかけると、ダリは筆を止めて部屋を出て行ったという。「ガラが話すと神が遠ざかる」と言ったダリにとって、ガラの沈黙は神を呼ぶ条件で決して破られてはならないものだった。
当のガラ本人もそれを理解していて「私は彼の絵の中で黙ることでしか役割を果たせない」と話している。黙ることは彼女にとって自らの存在の強度を保つことに直結していたのだ。ガラはダリの幻想の中に閉じ込められたのではなく、沈黙するという形で自ら選んだその場所を支配していた。愛情や共感ではなく厳密な距離感で成立した関係だ。彼女は絵の中に封じられ、そこから現実へ干渉する異物として存在し続けた。
ダリは「ガラは私の絵の中で最も遠く、最も近い」と言ったが、現代の感覚からすれば二人の関係は極端だ。感情や対話を通して創造を進める芸術家が多い中で、ダリとガラの間には意図的に空白が設けられていて、その空白が絵の中に仕込まれた装置だったのだ。ダリはガラの沈黙の中に霊的な存在が去来した残響を聴いていたのかもしれない。「彼女は私の神殿の門だ」と言ったダリの言葉はおそらく比喩ではない。ガラは扉の向こうには行かずにただ「在って」、世界が再構成される瞬間を見届けていた。

