フィレンツェ・ドゥオーモ 最後の審判

スピリチュアルと宗教、信仰とエゴ  

 自分の言うことを聞かないから腹を立てる、という感情はエゴから発する。エゴは地球という三次元ないし四次元の場所においては個性を表すもので、常に悪として扱うのは間違っている。だが、他者を傷つけるまでに至ったエゴは「多くの人が思う二元論」の世界では悪だと言っていいだろう。もし「愛を持って殺し、善き世界に生まれ変わらせる」などという主張があるとしたら、そんな行為は他者の自由意志に対する侵害以外の何物でもない。人は自分の思うように人生を創る権利を持っていて、それは合意がない限り誰からも侵害されるべきではないのだ。

 自分が信じる宗教についてなぜその宗教を信じているのかと考えたとき、その理由がエゴから来たものではないと自信を持って言えるだろうか。エゴは一瞬の満足しかもたらしてくれず、次から次へと何かをほしがる類のものだ。そこに囚われている限り、望むような平穏や心の底からの満足は得られない性質を持っている。信じているものが永続的な心の平安と気づき、それに伴う霊的な力を齎してくれないのであれば、それを信じるに値すると思うのはどういった理由だろうか。

 私たちは、無条件に「教えられたことは正しい」と認識してしまう程度に気づきの力、個人としての考える力を失って現代に至っている。例えば、世界史に必ず出てくる「ヘブライ人はエジプトで新王国のファラオによる圧政に苦しみ、モーセの指導の下でパレスチナに脱出した」といういわゆる出エジプトの証拠は何もない。旧約聖書に書かれた「壮年男子だけで60万人が出エジプトに加わった」というほど大きな出来事を同時代の遺跡やパピルスに記述しないことは考えられないだろう。出エジプトが事実だったかは多くの学者が懐疑的であるにも拘らず、私たちはそれを事実として教えられている。

 このことを見ると、教育の背後に宗教的な哲学が存在していることがわかる。ダーウィンの進化論と「神が天と地を創造した」天地創造の両方を教える学校もある以上、教育が「真実のみを教え」ていないことはあまり意識されない事実だ。教育の内容は恣意的に決定されてきた。戦争について国によって考え方が違うのも、こうした恣意的な情報の切り取りから生まれたものだろう。

 特定の宗教系統の学校であれ、公立の学校であれ、そこで伝えられるのは教師を含めた多くの「誰か」の哲学…その人がどう考えどう生きるかの現われなのだ。必ずしもそれが悪いということではないし個々の考え方によって情報が切り取られるのは当然のことだが、教えられたことを吟味する作業が必要なのではないだろうか。

 私たち人間は「知恵の実を食べたことでエデンの園を追われた」とする宗教があるが、「神」の言いつけを守っているだけなら、それは神のペットかロボットのようなものだ。林檎を食べることで人間は自由を手に入れ、神の手助けがないためにどうすればいいのかを考えて生きてきたはずだ。現代に生きる私たちは、もう一度アダムとイブ、そして知恵を持つよう促した「蛇」の意味について問い直すべきなのではないだろうか。

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