理髪店の鏡
「圭一、おれはおまえだ。でも今のおまえとは違う、理想の圭一だ」
圭一は驚いて目を見開いた。鏡の中の自分が話しかけてくる? しかも、今の自分とはまるで違う、自信に満ちあふれた口調だ。おまえが理想をあきらめず、行動し続けていればこうなれたのだと語りかけてくる。
店を出てからも、圭一は混乱していた。それはそうだろう、人に言っても信じてもらえないような体験をしたのだ。家に帰って鏡を覗き込むと、そこにも一瞬、あの自信にあふれた自分が映っている気がした。そして翌朝会社に行くと、同僚たちの態度がなぜか違っていた。何が起きているのかはよくわからないが、何かが変わり始めているような気がする。
今まで通った試しのなかったプレゼンが通り、部下たちが圭一を慕う様子を見せる。どんどん自信がついて、自分が若々しくなっている気がした。家族の態度も変わった。妻も娘も自分に信頼を寄せ、心のこもった会話ができている。まるで、鏡の中の「理想の自分」に近づいているようだった。
理髪店での体験から一週間が経った頃、圭一はもう一度あの店を訪れようと思った。だが、あるはずの場所に理髪店は見当たらなかった。幻のように消えてしまったかの如く、痕跡さえ残っていない。
「何だったんだろう…」
不思議に思いながら帰宅し、ふと鏡を覗き込む。そこにはあの理髪店で見た自分が映っていた。だが今度は、鏡の中の自分は冷たい目で圭一を見ている。鏡の中の自分は不満をあらわにした。
「おまえ、今の自分で満足か? もっと望んでたんじゃないのか? 」
不意に冷たい空気を感じる。鏡の前から離れたいのに、体が動かない。圭一は、じっと鏡の中の自分を見つめ続けるしかなかった。突然視界がぼやけ、気がつくと鏡の中の「理想の自分」がこちらを眺めている。違っていたのは、自分が鏡の中にいることだけ…。
「ありがとうよ、圭一。これからはおれが本当の佐藤圭一だ」
鏡の向こうの「理想の自分」が笑う。圭一の人生を奪い、人生を謳歌するつもりだろう。そして圭一は鏡の世界に閉じ込められたまま、呆然と向こう側の現実を眺めていた。
圭一が見つけられなかった理髪店は、また静かに営業中の札を出し、再びやってくるであろう客を待ち始めた。