
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 イントロダクション 1-3
※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 イントロダクション 1-1 1-2
しかし、宗教は逆の歴史をたどっています。宗教は個人から始まってコミュニティへと広がります。個人は「部族の神々」に思い至る以前に、自分ではない何かの力を感じ、崇拝したり機嫌を取ったりすることになります。呪物を崇拝し、祈りの中で先祖に話しかけるうちに「家族」はやがて「部族」になり、乱交は一夫多妻制へと移行していきました。
ですので、道徳と宗教の結びつきは必然ではなく、人類の歴史の中で比較的最近に始まったものです。実際これら二つの結びつきは未だに完全ではありません。正統派キリスト教は「信仰の正しさは行動の正しさと同様に重要である」と主張しており、教義を受け入れるのを拒否した人々が罰せられて死刑になったのは、それほど昔の話ではありません。創造主から見れば、道徳を守るより難解な形而上学的問題を正しく述べる方が重要なことだとされていました。
宗教と道徳を結びつけるための第一の作業は、道徳を宗教の認可の下に置くことでした。社会経験によって必要になった、もしくは有利になるような行動規則は、信仰の恐怖を呼び起こすことで強制されました。社会の道徳規範に反する行為は神々やその使者によって禁止され、そういった行為をしようとする者はこの世と来世で破滅する運命にありました。もともと聖なる力を使うための場所と物を置くために使われていたタプは、道徳を保護したり道徳に反した罰を召喚するために使われるようになりました。そして部族の敵だけでなく、部族内での道徳を乱す「敵」にも天の呪いが下されたのです。
こうして宗教は部族のためものであると同時に個人的なものとなりました。個人の宗教的本能は社会という形態をまとい、家族の周囲にあった宗教的概念は修正され、共同体へと移されたのです。超自然の恐怖に屈服し、その命令に従う理由は、もはや個人の恐怖や畏敬の念だけではなくなりました。部族生活に結びついたあらゆる絆やつながりが加わったからです。倫理的要素は宗教と結びつき、個人の宗教的本能または宗教的意識は倫理的行動の規則や法に結びつきました。その結合は、最初は多かれ少なかれ偶然の産物でした。倫理と宗教という二つの要素の位置が逆転し、倫理規範の宗教的認可が宗教の倫理的認可に置き換えられるまでには、長い年月がかかりました。キリスト教の詩人が「正しい道を歩む者は間違うことはできない」と宣言できるまで、何世紀もの学びを必要としたのです。
過去の宗教を扱うとき、私たちには気をつけなければならないもう一つの危険があります。それは、個人の考えや発言を、彼らが住んでいたコミュニティの一般的な宗教的信念と混同することです。私たちの古代信仰についての知識は、その大部分を文学資料に依存しています。私が述べている危険は、宗教史家が特にさらされるものでしょう。ですが、作家は「文学的活動ができる」ということ自体が同時代の大多数の人々とは異なります。印刷技術が発明される以前には、この違いは今日よりも大きかったことを忘れてはなりません。
作家は教育を受けた人だというだけでなく、並外れた文化的素養を持つ人でもありました。彼は自分で考えることができました。その考えや発言は記憶に残す価値があると考えられ、他の人が耳を傾けるような人でした。能力や天賦の才によって一般的なレベル以上に引き上げられていたのです。したがって、彼の考えは大衆の考えと同じであるはずがなく、立場的にも大衆と同じ方法で表現することはできませんでした。エジプトやバビロニアの詩人や神学者は必然的に独創的な思想家です。ですので彼らの作品の中に、当時暮らしていた人々の信仰や迷信を単純に反映したものを見つけることはできません。
断片がわずかしか残っていない文学作品からエジプトの宗教を再構築することは、古い作家たちのぼろぼろになった数ページから、前世紀の宗教を再構築するようなものです。古代エジプトの宗教が崇高な一神教だった、または寓話や隠喩に隠された、啓蒙された汎神論であったと証明しようというのは、思想家個人の願望と当時の宗教の実際の姿を混同したことに端を発しています。確かに、古代エジプト文化の残骸から救出された記念碑があり、神についての崇高で精神的な概念が体現されていて、純粋な一神教の言語を使ってはいます。しかし、そういった記念碑はエジプト人全体または大多数の考えではありません。それらは教育を受けることができた教養ある少数派の信念や考えを表しているのです。彼らは、エジプト人が精神的概念において到達できる最高の境地を描き出しました。当時一般の人々に信仰・実践されていたものではありません。少数派である彼らを「エジプトの一般的な信仰を代表する」とみなすのは、ソクラテスやプラトンがアテネの宗教を忠実に体現していたと考えるのと同じくらい誤解を招くでしょう。
古代エジプトの記念碑に関して、この見解が正しいことを裏付けようとしたら、二つの具体例を挙げて証明することができます。一つは第18王朝のアメンホテプ4世が宗教革命を行い、古い宗教をある種の一神教的汎神論に変えようとした奇妙な試みです。太陽円盤(新しい神の目に見えるシンボル)に捧げられた賛歌には崇高な精神性が吹き込みまれ、ヘブライ語聖書の一節を思い起こさせます。その中に「ああ神よ」という一節があります。「ああ神よ、まことに生ける者、私たちの目の前に立ち給う者よ。あなたは無だったものを創造し、すべてを形づくられました」「私たちもあなたの口から出た言葉によって存在するようになりました」。
こうした言葉はエジプト以外の宗教から生まれたもので、当のエジプト人たち自身も「国家の神に対する侮辱、テーベの聖職者に対する宣戦布告」とみなしていました。このファラオが墓に納められるや否や、国民たちはアメンホテプ4世が定めた信仰を固持しようとする人々に対して憎悪が爆発させます。太陽円盤の神殿と都市はほとんどまっさらになるまで破壊され、異端のファラオの遺体はバラバラに引き裂かれました。アメンホテプ4世が描かせた作品だけが現存していたなら、私たちは古代エジプトの宗教について完全に間違えたイメージを作り上げ、エジプト史の中でほんの一時期、少数の人たちが信じていた教義-古くからの「正統派」信仰の信者たちに忌み嫌われていた教義を古代エジプトの宗教だと考えていたでしょう。

