
現実を歪める神の回路 サルバトール・ダリとガラ・エリュアール
描き、呼ぶ
サルバドール・ダリの絵画には現実的な描写はほぼ存在しない。『記憶の固執』では硬いはずの懐中時計が溶けたように描かれ、時間と物質の境界が曖昧になっている。『茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』は、頭のない身体と崩れた顔を持つパーツの足りない身体が組み合う緊張感のある絵だ。そこでは物理法則が無視され、物体は本来の役割を持たない異質なものに変化している。
ダリは『記憶の固執』についてスペイン戦争を予兆していたと言ったが、彼には霊的な世界との関わりが感じられる。宗教からは距離を置いていたが、「可視化できない力」「突発的な形態変化」にはこだわりがあった。「偏差」や「エネルギーのかたち」などは作品を説明するのによく使われた言葉で、ダリの作品は「言葉にも形にもなっていない無意識」を視覚化したものだと言えるだろう。
画家の作品は当然ながら「見られること」が前提にあるが、ダリは作品だけでなく奇抜な髭、宝石付きの杖、芝居がかった口調の「召喚された存在」として自分自身をも描いた。だからダリが現象、あるいは作品として成立するためには「自分を見る存在」であるガラが不可欠だったのだ。
視線の触媒 ガラという巫女
「夢を描いているのではなく、夢が現実になる瞬間を描いている」とダリは言った。作品の中に描かれている物理法則の異常や歪み、「描くという行為は魔術的な行為」「潜んでいる形を召喚している」という言葉を考えると、彼の作品は現実世界に干渉する一つの装置だと言える。仕込まれた構造が作動するには誰かがその絵を見る必要があり、その視線の最初の持ち主として計算されていたのがガラだった。
ダリにとってガラは単に妻や恋人という言葉で定義できる存在ではなく、伴侶ではあれどどこまでも自由だった。『ルガルの聖心を持つガラ』では開かれた胸から聖なる心臓が露出し、無数の釘が打ち込まれている。ただ静かに神の干渉が刺さった残響として描かれた彼女は語りも動きもせず、ただそこにあるだけだ。この無機質さは人間としての生活でも同じで、ダリとガラは性的な関係をほぼ持たなかった―あまりにも極端な話だ。ジョン・レノンがオノ・ヨーコとの生活と創作を完全に融合させたように、多くのアーティストは作品に愛を反映させる。だがダリとガラの関係は視線を介した一方向の干渉だった。
晩年ダリはガラにプボル城を買ったが、自分自身は招待されない限り訪れていない。プボル城はガラだけの領域で、ダリは彼女を常に「あちら側にいる存在」として扱い続けていた。芸術家とそのパートナーが彼らのような非対称さを維持するのは、現代ではほぼ不可能だろう。承認欲求という言葉がSNSで跋扈する現代に、ガラほど自我を消して装置として在り続けられる人間はいないはずだ。だがダリとガラはそれを貫いた。お互いの寂しさや日常の断絶には目を瞑り、二人が生み出す作品を最優先したのだ。

