
世界に属したことがない女 レオノーラ・キャリントン
精神病院でのキャリントン
この生活は唐突に終焉を迎えた―エルンストがナチスに逮捕されたのだ。キャリントンは激しい混乱によって精神の均衡が崩れ、両親にスペイン・サンタンデールの精神病院に入れられた。医師は「現実検討能力の喪失」と診断したが、彼女は幻覚を見ていたわけではない。回想録『Down Below』で「私は壊れたのではない。本来の世界が露出した」と語ったように、彼女にとっては幼い頃から続く「現実」を見ていただけだったのだ。
キャリントンは拘束されながらも「夢も現実も同じ層なのに、あなたたちが重ねて見ているだけ」と言ったという。医学的な診断と彼女の間にある齟齬は、世界は二元性に基づくという視点と「一つの層の世界をそのまま見る」という存在論の衝突だ。「部屋に白い馬が立っている」と言って幻視と記録されたが、後に彼女は「私が見ていた世界の本来の姿の一部」と語った。いわゆる「霊的世界」の存在が実際に目で見えたら、それは「現実」としか言えないはずだ。
友人の助けを得て病院から逃亡したキャリントンは、リスボンへの船上で「肉体に戻らなければ完全に向こう側に行ってしまう」と言ったという。霊的存在として密度が高くなりすぎたという自覚があり、自分は「二元性を基準にしないレイヤーに位置する」存在だと認識していたのだろう。
メキシコ キャリントンと世界との邂逅
メキシコは生死の境が緩やかな場所だ。死者の日の祭壇と墓地で家族が食事をする風景、骸骨が通りを歩く音、伝統的な祈りとカトリックが並列にある日常。キャリントンにとっては「自分が合わせる」必要がない場所だった。彼女はよく何もないところを見ていて、友人のレメディオス・バロが「誰が見えているの」と聞くと「誰かではないわ。世界が顔を変えているだけ」と答えたという。詩人オクタビオ・パスは「彼女の世界には階層がない」と言ったが、メキシコでは感覚を歪めずにいられたからだろう。
その霊的な感性は作品にも反映された。『The Giantess」では巨大な女性と風景がモチーフで、その境界が曖昧に描かれている。『The House Opposite』では鍋の湯気、家具の影、女性などが分離されず、部屋の内と外も区別されない。『The Temptation of St. Anthony』では聖者・動物・スピリットが同位の「そこにいる存在」として描かれた。どの作品にも、生者と死者、スピリットが混然と共にあるメキシコ文化と同じ哲学がある。
主体の不在と事象の発生の順序
キャリントンが見ていたのは「主体が定義する前からすでに動いている」という、通常の知覚では捉えにくい世界だった。人は無意識に「自分という主体が先にあり、世界はそれに反応して現れる」ことを前提にしている。だがキャリントンはその生涯を通じて、「世界が先に変化し、自分は後からそれに気づく」という現実のあり方を提示した。
この世界観では、世界の変化は自己の判断や意思とは無関係に起きる。確かにキャリントンの感受性や表現は特殊で、彼女の体験も理解しにくいかもしれない。だが彼女が生涯を通して見せた世界の在り方は私たちにも意味がある。キャリントンのような観点は、自己中心的な世界観を中立に保つため、また謙虚であるために大切な視点ではないだろうか。

