
オフィーリアの棺 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとエリザベス・シダル
だがエリザベスはただのモデルではなかった。ロセッティから絵を学び、唯一の女性としてラファエル前派展にも出品した。美術批評家ジョン・ラスキンは彼女の作品を全て買い取り、年150ポンドの生活費を出している。出版されることはなかったが、報われない愛と死をテーマにした詩も100篇以上残っている。
ロセッティとエリザベスは専属モデルになった頃から婚約していたが、正式に結婚したのは1860年のことだ。9年間エリザベスはロセッティの専属モデルで弟子で婚約者という立場だったが、その間ロセッティは他の女性たちと関係を持ち続けていた。
棺の詩集
やっと迎えた結婚式の日、エリザベスはあまりにも体が弱っていたために5分の距離を自力で歩けず教会まで運ばれた。そして結婚から2年も経たない1862年2月11日の夜、大量のラウダナム、アヘンチンキを飲んだ。その年に死産していたことがきっかけかもしれないが、長年の病と中毒とロセッティの不実に絶望した末の結果だろう。翌朝になって帰宅したロセッティは、意識を失ったエリザベスを発見する。
検死審問では「偶発的な過剰摂取」とされた。ナイトガウンに「私の人生はあまりにも惨めだ。もう続けたくない」という走り書きがあったとも言われるが、確認はされていない。
葬儀の日、ロセッティは未出版の詩稿の束をエリザベスの頬と髪の間に挟むように棺に入れた。「リジーが苦しんでいるとき、私はあの詩を書いていた。彼女の傍にいるべきだったのに。だからあれは行ってしまわなければならない」
1862年2月17日、エリザベスはハイゲート墓地のロセッティ家の墓区画に、詩稿と共に埋葬された。
霊界への扉
エリザベスが埋葬された直後から、ロセッティは毎晩のようにベッドの足元にいる彼女を見るようになった。死者に会いに行くという発想は、彼にとって突飛なものではない―なにせスウェーデンボルグを研究し、ダンテを論じる父のもとで育ったのだ。友人の画家アンナ・メアリー・ハウイットが霊媒画家に転身するのも間近で見ていた。エリザベスが亡くなる以前の1858年にはすでに、アメリカ人画家ホイッスラーと共に交霊会に出入りし始めていた。
だがエリザベスの死後、ロセッティにとって交霊会はただの遊びではなくなっていく。テムズ川沿いのチェルシーに引っ越したロセッティは、繰り返し交霊会を開催した。ロセッティが求めていたのはエリザベスからのメッセージだ。やがて弟のウィリアム・マイケル・ロセッティが記録を取り始める。のちに「交霊会日記」と呼ばれるその手帳には、20回の交霊会が克明に記されている。参加者は延べ39人、場所は10箇所、うち6回はロセッティのスタジオで行われた。
その全てが必ずしもエリザベスの霊を呼ぶためではなかったが、プロの霊媒師メアリー・マーシャルやエリザベス・ガッピーが指導した日には強烈な出来事が起きることもあった。ある日にはオーデコロンが降り注ぎ、本棚から本が飛び出し、参加者の膝に花が落ちてきた。別の日には光が出現し、冷たい風が手の上を通り過ぎた。
ウィリアムはエリザベスの霊に尋ねた。「最近ゲイブリエルが発表した絵は、彼の最良作の一つだと思いますか」。返ってきた答えは短く、正確だったとウィリアムは書いている。亡くなった画家たちの霊も頻繁に現れ、自分の死の時期や場所を正確に答えた。編者たちが後にアーカイブを調べたところ、記録すら残っていなかった人物の証言が事実と一致した例もあったという。
ヴィクトリア朝のイギリスで交霊術は一部の変わり者の趣味ではなく、ヴィクトリア女王から洗濯婦まで、死者に会いたいという思いはあらゆる層に広がっていた。詩人エリザベス・バレット・ブラウニングは亡くなった兄弟に会うために交霊術に傾倒し、コナン・ドイルは息子の死によって終生の信念を強めたという。ロセッティの動機は単純だった―「エリザベスがあの世で幸せかどうか確かめたかった」、それだけだ。