古代エジプトから考える分裂と統合(後編)-宇宙の一部としての「わたし」
多くの地域の古代神話の神々が人間臭く「でも完璧」なのに対して、「間違いを犯さない、完璧な善」ゆえに神だとされてきたのが、言ってみればまやかしの二元論の神だ。どんなに「悪」く見える人間も「善」いところを持っているという視点が消えたら、どんどん争いが生まれてしまう。そして、人が持っている価値基準は自分とは違うのだという根本的な事実を忘れて「どちらが正しいのか」、つまりイデオロギーで争うようになる。絶対的に「正しい」ものなどないのに。
人間を作った神とそれ以前の神…宇宙の神とでも呼ぶべき存在は、男性原理と女性原理の二つをすでに内包していると言う点で決定的に異なる。この世を作った存在がすでに二元性を内包していると理解するとき、私たちは分身としての神の子だという説明が成り立つ。0=∞、1=∞だからだ。そして私たちが矛盾を抱えた存在であることも、この世を作った存在が二元性から成ることを証明している。ひとつの原理から成る二元性を内包しない存在の分身として、矛盾を抱えた存在が生じるわけがない。完全無欠の絶対神からは矛盾だらけの世界は生まれず、のっぺりとした善悪も強弱も濃淡もない何か、もしくは完全なる善か悪しか存在しないだろう。
「神は完璧な存在だから、何もない本当の無から何の要素も使わず全てを生み出す!」と思うなら考えてみてほしい。少なくとも地球で錬金術における法則は等価交換だ。地球を超えて物理法則を無視できる存在…宇宙の神、原初の海を作ったような存在を認識できたとしても、地球の神の理、法則も使いこなせていない私たちはまだそこから学ぶ段階にはない。
本来の二元論の世界は無、もしくは混沌、何もないように見えてすべてがあるところから二つの原理をひとつの形として生み出すことで出来上がったものだ。三角形の底辺の二点を使って、頂点を生み出すような仕組みになる。私たちは0か1か…善悪や白黒をはっきりさせたくなってしまいがちだが、これもまやかしの二元論、単純な善悪の世界で生きているからこそ起こる現象だろう。
だが、無から有を生み出したとき、0は1になっただけでなく1を分割した2になった。そしてその1は1になった時点ですでに2を内包していたというのがこの世界の成り立ちなのだ。私たちは細胞分裂を無数に重ねて一人の人間となって生まれてきた。分裂して細分化することで逆に1になる、おそらくはこれが超えるべき二元論の本質と言える。
この世界を作った存在、例えばラーを1とすると、シュウとテフヌトという2を生み出したことによって1=1+1という式にすることができる。だが、それぞれの1にはすでに相反する要素である男性性と女性性=1+1が含まれている。そう考えれば、悪魔と呼ばれるような存在の中に善を見出すことも、彼らは存在する理由があってここにいるのだということもわかる。私たちの目は光と影の両方がなければ何も見えないし、音源と振動を伝える空気や水がなければ音を聞くことができない。ひとつの要素しかない世界では何かを認識することができないのだ。