キリスト教会と岩のドーム

霊的正統性が生む支配の系譜(4) 沈黙する神への信仰とは何か

 神が語らなくなったあと、人間はその沈黙の理由を探し始めた。アブラハムの時代、神はモーセや預言者たちに直接語りかけていたはずだった。だがその声は時とともに弱まり、預言者の系譜は途絶えた。神に去られた人々はその沈黙の理由を理解できず、やがて「神の意志」を解釈しようとし始めた。経典や律法が整えられ、教義と儀礼が体系化された―すべては人の手によって。宗教は沈黙を続ける神の言葉を聞こうとする努力によって生まれたと言えるだろう。

何もしない神

 これを象徴するのが世界に名だたる神「ヤハウェ」だ。多くの神々が争い、愛し合い、人間の世界に介入する中、ヤハウェは決して動かない。「戦え」と人を煽り、罪を裁くとは言うのに、実際にその行為を行うのは常に人間だ。ヤハウェは「命令の神」なのだ。その姿は見えず、怒りも赦しも「ヤハウェの言葉」として表現される。このヤハウェのあり方が、彼に対する信仰が多くの流派に分かれた理由だ。その命令を誰がどう実行するか、人々は自分たちによかれと思ったやり方を取った。預言者は「正義の神ヤハウェ」、為政者は「秩序の神ヤハウェ」、民は「救いの神ヤハウェ」を語った。だがヤハウェ自身は何もせず、正しい解釈も伝えず、ただ語られる無数の姿にその形を変えていった。

 これが一神教の根本的な構造となった。直接世界を動かすのは神ではなく神の名を語る人間だ。神は沈黙のまま誰のことも咎めないのだから、宗教が繁栄したのは必然だったと言えるだろう。神が沈黙すればするほど「神と繋がることができる代理人」の必要性は高まる。祭司、王、教師、預言者たち…神を語ってきた者すべては神の沈黙を補完するための存在だった。

三大宗教と沈黙に対するそれぞれの反応

 三大宗教の違いは「沈黙した神をどう扱うか」という哲学の違いだと考えられ。ユダヤ教は「神が契約を破ったら人間は怒り、神の沈黙に対しては預言者が抗議する」という、対話主体の哲学から始まった。神と人の間にはある種の緊張関係があり、それは律法の厳しさに反映されている。

 キリスト教は神の沈黙を前提にして、その空白を「愛」で埋める方法を取った。愛と赦しを通して人間が神の意志を体現する―行為によって神の沈黙に応答しようとしたのだ。これは「隣人を愛せ」という倫理となった。彼らは神を「愛と赦し」を求める存在だと定義づけたことになる。

 イスラームは、沈黙する神を前にして完全な服従によって神の代理となる道を選んだ。啓典の言葉そのものを神とみなし、神の沈黙を「完結した言葉」として受け入れる。神の言葉を人間が再解釈する余地はなく、感情より神への忠心が中心になっている。

 それぞれの宗教は「神が沈黙した世界で神とどのように関わるか」という同じ問いに向き合った。ユダヤ教は抗議、キリスト教は愛、イスラームは服従という言葉で表現できるだろう。神が何もしないからこそ、人間は神の名の下で生きるしかなかったのだ。

沈黙の理由を考える

 だが、神が語らないことは本当に人間にとって悲しむべきことだったのだろうか。神が人間の親と同じように私たちを自分の手から放し、自立させようとしたと考えたら-その沈黙の意味は今までの枠組みを超える。神は私たち人間に責任と主体性を返そうとしたとも言えるからだ。私たちは自分自身で世界を判断し、その時々に応じた選択肢を選ばなければならない。聞こえない神の言葉に耳を傾け続けるのではなく、神が何も語らなくても世界を見つめ続けるのが私たち人間なのではないだろうか。

 ヤハウェという名で呼ばれる神が本当に伝えようとしたのが「人間として自立せよ」ということなら、沈黙する以外にそれを成す方法はない。沈黙への耐久と超克-神の沈黙が気にならなくなったとき、人は初めて「信じる」ことから自由になれる。それは信仰の終わりではなく、その成熟の形であるはずだ。

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