死せる母 ─ ムンクが描いた「もうひとつの叫び」
目が追いかけてくる
「死せる母」が「呪われた絵画」と呼ばれる理由としてよく挙げられるのが、少女の目が見る者の動きを追ってくるというものだ。だがこれには科学的な説明がある。平面の絵画を見るとき、脳は奥行き情報を更新できないため、正面を向いた目が自分を追っているように感じるのだ。この錯覚はどんな絵画でも起こりうるが、「死せる母」の場合は特に強烈だという報告が多い。
この絵の近くに立つと、かすかにシーツが擦れるような音が聞こえる、少女の姿が消えるという話もある。絵を見つめ続けていると、前景の少女がキャンバスから消え、ベッドに横たわる母だけが残されるという。
キャンバスの下
2005年、ブレーメン美術館所蔵の「死せる母」のX線調査が行われ、キャンバスの下から別の絵が発見された。「少女と三つの男の頭部(Girl and Three Male Heads)」と呼ばれる作品で、裸で座る少女を不気味な仮面のような男たちの顔が取り囲んでいる。
なぜムンクはこれを塗りつぶしたのか。少女を囲む視線を消し、その上に母の死を描いた理由はわからない。ただ、この発見が「死せる母」の怪談に新しい次元を加えたことは確かだ。消し去られた少女の視線が、今もキャンバスの表面を通してこちらを見ているのかもししれない。
ナチスの影
「死せる母」の来歴には、もうひとつの暗い影がある。1918年、ブレーメン美術館がこの絵を購入した際に所有していた者として、グルリット家の名前が挙がっている。この一族は第二次世界大戦中、ナチスのために略奪美術品の取引を行ったことで知られている。2012年にはヒルデブラント・グルリットの息子コルネリウスのミュンヘンのアパートから1300点以上の略奪美術品が発見され、世界を震撼させた。「死せる母」とナチスによる略奪が直接つながるかどうかは現時点では確認されていない。しかし絵が通過してきた歴史は、作品にまたひとつの影を落としている。
呪いではなく執念
「目が追いかけてくる」のは視覚の錯覚で、シーツの音は想像力の産物だろう。そして少女が消えるという話は、19世紀末に流行した「変化する絵画」というモチーフの影響が考えられる。
それでも、この絵が見る者を不安にさせ続けるとしたら、それこそがムンクの意図だったのかもしれない。イェーゲルに「魂の絵画を描け」と言われたムンクは、5歳で母を失った記憶を、繰り返し何度も何度もキャンバスに塗り込めた。ムンクはこう語っている。「私は芸術において、自分自身に人生とその意味を説明しようとした」と。
絵の中の少女は今もブレーメン美術館で、両手を耳に当てたまま立っている。何も聞きたくない、何も受け入れたくない。でも目だけは開いて何かを見つめ続けている。その目があなたを追いかけているように感じるとしたら、それは呪いではない。ムンクの魂がまだそこで叫び続けているのだ。
作品データ
- 作品名: 死と子供 / 死せる母 (Death and the Child / The Dead Mother)
- 作者: Edvard Munch(エドヴァルド・ムンク)
- 制作年: 1899-1900年
- 技法: 油彩、キャンバス
- 寸法: 99 × 90 cm
- 所蔵: Kunsthalle Bremen(ブレーメン美術館)、ドイツ