ホテルの廊下

チェーンのホテル

 高知県に出張したときのことだ。ビジネスホテルの中ではよく知られる、全国展開しているホテルに予約していた。駅から近くアクセスもいいし、知名度があるので大間違いはないだろうと思ったのだ。

 だが、そんな小さな期待はチェックインの瞬間から裏切られた。フロントに立っていた中年の男性は伏し目がちで愛想もなく、淡々と手続きを進めていく。声も小さい、ましてや笑顔もない。キーをこちらに渡すときも「はい、〇〇号室です」とぶっきらぼうで、他のホテルでは必ずされるような説明もなかった。

 そんな違和感は、部屋に入るとさらに強くなる。古びた絨毯はじめっとしていて、エアコンをつけたらカビの匂いがした。バスルームのタオルは妙に湿気ていて、気のせいか生臭いような…。シャワーは水圧が弱く、か細い糸のような水がチョロチョロと流れるだけ。何より気になったのは夜中だ。隣室からボソボソと話すような声が聞こえてくるのに、何を言っているのかさっぱりわからない。

「…、……」

 決して大きくはない声なのに、まるで壁越しに呟いているようだ。気のせいにしようと思ったが、その声は全く止む気配がない。壁の向こうから、延々と聞こえる低く湿った声…。寝返りを打つたびに気になって、とうとう一睡もできないまま朝になってしまった。

 目の下にクマができた顔でチェックアウトした私は心に決めた。―このホテルチェーンには二度と泊まらない。

 それから数年が経ったある日の夜、日帰りのはずの仕事が長引いて終電を逃してしまった。家までタクシーで帰るより、ビジネスホテルに泊まったほうが安く上がる。取り急ぎホテルを探してみたが、近隣はどこも満室だ。スマホのバッテリーも心許ない。

 そんなときに目に入ったのが、あの時のチェーンだった。一瞬ためらったものの、背に腹は代えられない。外は冷え込んでいたし、ほかのホテルを探し続ける余裕もなかった。

 飛び込みでホテルに向かうと、フロントには若い女性スタッフが立っていた。

「お疲れさまでした。今日は寒いですね」

 笑顔も対応も、あのときとはまるで別のホテルのようだ。部屋の空気は清潔で暖かく、水圧も強くてタオルはふかふかだ。

「ずいぶん改善されたな…」

 そう思いながら、シャワーのあとのビールでも飲もうと椅子に腰を下ろす。デスクの上には、館内案内とホテルチェーンの宣伝チラシが置いてあった。

「来月〇〇チェーンが高知県に初進出!高知県にお寄りの際はぜひお立ち寄りください」

 …え?あの高知の湿った部屋は?カビの臭いと生臭いタオル、無愛想なフロントマン。そして、夜中に隣から聞こえてきた声は…?

「…いますか…」

 そうだ、あの声は誰かいるのかと訪ねていた。誰が? 誰を探していた…?

 私は案内のパネルからそっと目を逸らし、それ以上考えないことにした。果たして今夜は眠れるだろうか―。

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