
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 イントロダクション 1-4
※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 イントロダクション 1-1 1-2 1-3
もう一つの例は、文化的な社会と古代文明が存在するところには必ず存在するものです。それは懐疑主義的で、神という概念を受け入れられない人々… 古くから受け継がれてきた伝統に批判的で、崇拝や信仰を日常生活に調和させるのは無理だと考える人々の文献です。表立って教義を否定したり反対したりするのではなくただ無視していた人々は、フランスの百科事典編集者的な懐疑主義ではなく、快の追求を訴えたエピクロス的な懐疑主義者でした。
彼らは信仰を無理強いされない限り、誰かが神や司祭を信じるのは構わないと考えていました。エジプトにもギリシャやローマと同じように、古い文献を批判的に見る人々がいました。例えば紀元前2500年頃、第11王朝時代に書かれた『ハープ奏者の歌』を見てください。韻律訳では原文の精神と意味がきれいに保たれています。その一部は次のようなものです。
運命とは?と賢者は言う。炉や家は消え去る。
死んだ者が何をして何を考えているのか、誰も教えてくれない。
平和に食べて飲んで、今日が去っても財産は残る。
最後に長い道のりを歩いた者は、二度と戻ってこない。
これはエジプトの懐疑主義を示す唯一の記録ではありません。後代になって、薄っぺらな寓話という形で国民的信仰の教義が論破されました。それはエジプト社会の正統派、尊敬される存在を意味する猫と、異端かつ不信仰の代弁者を表すジャッカルとの対話という形式をとっています。著者が信仰を懐疑的に見る側に共感しているのは明白で、ジャッカルではなく猫が議論で負けています。権威と理性の間の論争では、権威は劣ることになります。エピクロスに『ハープ奏者の歌』の作者という先人がいたように、ヴォルテールにも対話篇の作者という先人がいます。
もしエジプトの信仰について今挙げた2つの例だけが残されていたら、私たちは古代エジプト人の信仰・不信仰について完全に誤った結論を導いていたでしょう。エジプト人が死後の世界を詳細に描写し、どの民族よりも真面目に来世を信じていたとは誰が想像できたでしょうか。彼らの信仰には魂や精神の不滅ばかりか肉体の復活までが描かれていたとは考えられなかったはずです。また、死んだあとの祝福された世界は「より幸福でより晴れやかなエジプト」、光と歓喜、祝宴と歓喜の地として描かれたなど想像できなかったでしょう。当時のエジプトの宗教について、一部の文献だけで判断したり、神官と一般の人々が何を信じていたかについて精巧な理論を構築したりはできません。残された記録の断片を扱うなら、一般の人々の考えではなく教養のある少数の人々の考えを表していることを念頭に置いておく必要があります。
まだほかにも誤る可能性があります。それは、神学の言語を文字通りの意味で解釈しようとすることです。これは古い解釈方法が「単純なテキストに寓話を、簡素な言葉に神秘的な意味を」見いだしていたことへの反動です。古代の作家が真剣に残した言葉に、現代の神官が話すような意味を恣意的に読み取ることは魅力的な娯楽かもしれません。ですが、現代科学で用いられる方法から見ると、正しい結果を導ける方法ではないという認識が生まれました。古い文献を理解しようとするなら、偏見や先入観、権威に左右されずに、文字通りの自然な意味を見つけようという態度が必要です。神学者たちは言語の曖昧さを利用し、文献を残した人間の知識や願い以上のものをでっち上げてきました。現代の出版物と同じく、古代エジプトの本から寓話や隠喩表現をでっち上げることは許されません。

