異端のファラオ 𓇋𓏏𓈖𓇳𓅜𓐍𓈖 アクエンアテンを深掘りしてみる
アクエンアテンはアテン(アトン)という太陽神だけを拝む改革を行い、多神教から一神教への思想の転換を行おうとしました。古代エジプトではファラオは神の化身という扱いでしたので、アテン(アトン)とアクエンアテンという緩やかな二神教ではあるものの、彼が後世に残した影響は莫大なものでした ― 現在の世界は一神教の概念を下地として「どの神が本物か」という争いが多発しています。そしてその争いは、相手の言い分には耳を傾けず、他者の信念を真っ向から否定するものです。
スピリチュアルの世界でも、口では愛が大切だと言いながら誰かの悪口を言っていたり、自分だけが得をしようとする人たちが蠢いています ― 『アテン賛歌』という当時の人が墓に刻んだ文を読む限り、少なくともアクエンアテンは神という自分の信じるものに対して真摯に向き合い、民の幸せと可能な限りの平等を願っていたはずです。
アクエンアテンは、神が自分の中に存在するものだと考えていたのでしょう。神官に賄賂を渡したりご機嫌伺いのようなことをしなくてもいい世界を作るために、神官に頼らなければ神と繋がれないという宗教的な信念を「破壊」し、新しい都と宗教的な信念で「再生」を試みたのではないかと思うのです。神がアテン(アトン)とアクエンアテン自身しかいないのであれば、人々は神官を通してではなく自分の責任で神に向き合うだろうという期待があったのではないでしょうか。
アマルナ文書にあるように、友好国から戦への支援を求められても返事すらしなかったのは「起きることはどうしたって起きる」という悟りのような態度だったのだと思いますし、彼の悲劇は自分と同じような意識をほかの人たちも持つはずだという思い込みだったのだと思います。ダスカロスが言うようにアクエンアテンが神の啓示を受けたのだとすれば、それは幼い頃からファラオの元で神に関して学んできたからだったはずで、それまで神殿や神官に頼ってきたのに突然放り出された人々は困惑したり反発したりするしかありません。
現代を生きる私たちは、純粋な意図以外を持った「神・神官」に頼ることなく自分の責任で日々心穏やかに過ごしているでしょうか?アクエンアテンが目指した世界が実現していたら、今この時がどんな世界になっていたのか見てみたい気がします。