
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第二章 古代エジプトの信仰 2-1
※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 古代エジプトの信仰 1-1 1-2 1-3 1-4 1-5 1-6
古代エジプトは主に遺跡や墓で知られています。上エジプトの雨の降らない温暖な気候のおかげで、都市の遺跡に偶然埋もれた日常品の数々が保存され、集落の跡地からは壊れやすいパピルスの断片すら出土している。しかしこれらは、古代エジプトの生活と歴史に関する遺物の十分の一にも満たない。過去のエジプトについて現在知られていることのほとんどは、神殿と墓から学んだものだ。墓には死者への供物や生きている人々の日常生活が描かれ、壁は墓の持ち主の描写、その生涯、神への祈りの言葉で飾られていた。神殿は宗教的知識の宝庫で、壁や天井には彫刻や絵画が描かれている。古代エジプトに関する私たちの知識のほとんどは神々と死者から得たものなので、大部分が宗教と来世に関わるのは当然だろう。
私たちは古代エジプト人の宗教的思想を突き止めるのに、また長期間にわたる彼らの歴史をたどるのに、非常に有利な立場にある。最近の発見によって、エジプト文明の始まりにまでたどり着いているのだ。古代エジプトの起源を覆っていたベールがついに剥がされ、宗教的に不可解な矛盾のいくつかが説明されつつある。私たちがよく知っているエジプトの信仰は、非常に複合的で、異人種、異文化と思想の流れの中で生まれた。そしてそれは均質な「全体」に統合することはできなかった。エジプトの信仰は体系というより雑多な遺物の結合で、はっきりと神学というより異なるカルトの連合体だった。エジプトの統一性は、太陽神の息子かつ代表者で太陽神自身の顕現でもあったファラオによって成されていた。エジプト統一とは純粋に個人的なもので、ファラオがいなければ、エジプトという国家もその信仰も分解されていただろう。
ファラオ時代のエジプト人 ― ナイル川を堤防で囲み、沼地や砂漠を耕作地に作り変え、神殿や墓を建て、エジプト文化という遺物を残した人々は、元々はアジアから来たようだ。おそらく最初の居住地はバビロニアだったと思われる。ナイル川の谷で彼らが見つけた民族は、すでにある程度の文明を持っていた。新石器時代文化が進んだ段階にあり、フリント製の道具はそれまでの道具より優れていて、硬い石で瓶を作るのに熟練していた。農耕民族というよりは牧畜民族で、川岸より砂漠の方に住んでいた。彼らは銅の武器を持った新参者には敵わず、侵略民族は少しずつナイルの渓谷を支配していく。ですが、ホルスに従った「鍛冶屋」たちが古い住民を征服するまでには激しい戦いが必要だったと記録されている。
侵略者たちがどの程度まで単一の人種だったかは、いまだに不明のままだ。学者たちによれば、紅海を渡り、東の砂漠を通ってナイル川までという「エジプトに南から侵入したアジア人」という一つの説がまず挙げられる。そしてメソポタミアから陸路でやって来て、スエズ地峡を越えてデルタ地帯に侵入したアジア人が考えられている。しかしこの陸路の侵略について、私自身は証拠を見いだせていない。現在入手できる資料から判断する限り、歴史上のエジプト人はせいぜい三つの要素 ― 南からのアジア人侵略者と、原住民と呼べる二つの人種から構成されていた。そのうちの一つはリビア人だとペトリー教授が主張するのはおそらく正しいだろう。
このような理由から、エジプトの宗教の根底には、その人種に対応する少なくとも三つの異なる宗教的信念と実践があると言える。そのうちの二つはアフリカ系、三つ目はアジア系…おそらくバビロニア系だろう。したがって、宗教的概念の違いだけでなく、儀式や祭祀の相違があることを覚悟しておかなければならない。そうした相違はもうすでに発見されている。
例えば防腐処理の習慣だ。私たちは古代エジプト特有の習慣だと考えるが、防腐処理は創世記でも言及されている。古代エジプト人は死ぬとミイラにされたという事実だけを知っている人も多い。小さなお守りやスカラベのほとんどはミイラの包帯から出てきたもので、パピルスも同じだ。太古の昔からエジプト人は死者をミイラにし、その習慣は死者の復活に関する古代信仰と関係があるかのように私たちは教えられてきた。だが最近の発掘調査によって、それは間違いだということがわかった。ミイラ化はエジプトでは一般的ではなく、まったく作られなかった時代もあった。先史時代の人々はミイラを知らず、ファラオを擁するエジプト人の間でもミイラ作りはゆっくりとしか広まらなかったようだ。第4王朝と第5王朝以前にはミイラの痕跡はほぼ見つかっていない。
ミイラ作りの習慣は死者の復活信仰と密接に結びついていた。従ってミイラの痕跡がないということは、この信仰が存在しなかったか、まだ重要な位置にはなかったことを意味する。防腐処理と同じように、ミイラはファラオ時代のエジプト人が導入したに違いない。国の古い民族が征服者に吸収されていくにつれ、ミイラとそれに関連する宗教的思想は一般化していった。第18王朝以前は、ミイラにされるのは実質的に王家と公式の聖職者に限定されていたようだ。

