
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第三章 人間とあの世の不滅の部分 3-1
※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 1-1 1-2 1-3 1-4 1-5 1-6 第二章 2-1 2-2 2-3 2-4 2-5
旅行者や民族学者の中には、「神」という観念を全く持たない種族がいると主張する者もいる。だが、そういった主張は多くの場合、彼らが「我々の意味するところの神」の観念を持たないというだけの話だ。葦を世界の創造者と考えていたズールー族でさえ、世界は自分たちの外側にある力によって創造されたと信じていた。私の知る限り現代の研究では、どの種族もこの類いの力や目に見えない世界への信仰を欠いたことはない。これに反する主張は、概ね無知や誤解に基づくものだ。野蛮人(サヴェージ)が夢を見る、そしてその夢が目覚めているときと同じように現実とされているという事実は、それ自体が「別の世界」への信仰を生み出す。ここでは便宜上、それを「別の世界」と呼ぶことにする。
この「別の世界」は、我々が想像するような抽象的・霊的な世界ではなく、むしろ物質的なものであることを忘れてはならない。敬虔なキリスト教徒たちが今でも憧れる「天のエルサレム」が物質的であるのと同じだ。サヴェージは物質的実在以外の経験を持たないため、我々が意味するような「霊的」という観念に到達することはできない。もし可能だとしても、それを極めて抽象的に捉える能力には限界がある。ゆえに、彼らの「霊的世界」は、感覚的な象徴によって理解されるだけでなく、それら感覚的象徴そのものと同一のものとして存在している。ラテン語の「anima(アニマ)」が「魂」を意味するようになる以前に「呼気・息」を意味していたことは、この点を物語っている。
このような感覚的かつ物質的な「霊」の概念は、人類の心の中に長くとどまり続けてきた。実際、人間である限り、我々がこの観念から完全に自由になり得るかどうかは疑わしい。歴史を遡れば遡るほど、この観念は支配力を強める。「別の世界」は確かに存在するが、それはこの世界と不思議なほど似通った世界だ。
この「別の世界」という概念と密接に関係しているのは、人間が自らの本性について抱く観念だろう。人類のほとんどの種族は、何らかの形で「第二の自己」という信仰を持っている。それは夢の中で見る自分自身のように、生きている自分の全てを映し出す鏡のような存在だと考えられることもある。おそらく、夢こそがその発想の源だったのだろう。ときに「霊」は灰色の蒸気のような存在とされるが、これは口から出る呼気、もしくは死に際して身体から離れていく何かだと考えたことに起因するのかもしれない。あるいは夜の森や沼地の縁に出る霧のような事象に由来するかもしれない。また別のときには、湿った地面で腐敗する植物が放つ燐光やガス、光の閃きとして捉えられることもある。さらには天へと飛んでいく鳥や、花から花へ舞う蝶、地面を跳ね回るバッタのような昆虫に喩えられることもある。
いかなる姿で描かれようとも、「霊」は触れることのできないものでありながら、感覚によって知覚されるという意味で物質的でもある。つまり、五感で感じられながらも、手では捉えられない何かなのである。

