
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第二章 古代エジプトの信仰 2-3
※著作権の切れた書籍を翻訳・意訳して掲載しています。『The Religions of Ancient Egypt and Babylonia』Archibald Henry Sayce 翻訳した文章©StellaCircus
『古代エジプトとバビロニアの信仰』第一章 1-1 1-2 1-3 1-4 1-5 1-6 第二章 2-1 2-2
組織的な宗教は、さまざまな要素が組み合わされたものだ。昔の遺物と後の時代の考えが結びつき、異なる起源を持つ信念が一つの信仰に取り込まれている。その結果、全体としては調和して統合されているものの、昔の信仰と現在の信仰の間にある矛盾や相違点を説明しようとする努力が重ねられてきた。現在の信念は、昔から変わらず受け継がれたものか、もしくは過去の教えや儀式が自然に現在の形へと発展してきたものとされている。
だが、エジプト人はこうした調和を図る努力をしなかった。彼らは、祖先から受け継いだものは真実だと認識しており、それが他の信仰と矛盾しているかどうかを気にしていなかった。古代エジプト人は人生における矛盾や不平等を受け入れるのと同じように、自分たちの信仰の矛盾を受け入れ、体系化や調和させようと意図することはなかった。彼らの信仰は、過去何世紀にもわたる「芸術と建築が共存する神殿」のようなもので、そこにあるものを保存し、壊すことなく受け継ぐことを重視していた。
この精神は現代のエジプトにも通じている。エジプト人は建物や家具が朽ちても修復せずに放置する。その隣に新しい建物や家具が置かれ、過去と現在が共存することを気にしない。エジプト人は過去を尊重し、それを修正せずに保存することを重要視しているのだ。
このような考え方の背景には、エジプトの気候や生活環境がある。エジプト人は強烈な日差しの下で屋外生活を送り、家はほぼ眠るためだけに使われた。南の明るい太陽の光と乾燥した空気の中で、彼らはすべてを明瞭に目で捉えていた。だからエジプト人は、聞いたり触れたりしたものより、目で見たものが記憶に残された。
同時に、エジプトでの農業労働は単調で規則的なものだった。ナイル川の水を利用して土地を耕し、種をまき、水をやるという作業の繰り返しだ。こうした生活は現実的かつ実践的で、哲学的な思索や内省的な時間を生む余地はなかった。
結果として、エジプト人は抽象的な考えより具体的な象徴を好んだ。象形文字はその典型で、抽象的な概念を分かりやすい記号で表現していた。例えば「食べる」という行為は手を口に運ぶ絵、「邪悪な考え」はスズメの絵で表されました。こういった象徴があれば抽象的な思考を深める必要はない。具体的な絵がその役割を果たしていたのだ。
こうした一般論は古代エジプト国民全体に言えることだが、例外もある。農業などの労働をせず、宗教的概念を崇高に扱う階級—神官たちだ。その権力と影響力は時とともに増大し、最終的に古代エジプトの神学を作った。神聖な地域には神官学校が設立され、やがてその土地と収入の大部分を我がものにした。初期において神官の数はあまり多くなく、最後まで上位階級の人間は比較的少数だった。だが彼らによって人々の宗教的信念は修正され、基本的な体系化が行われた。
各地域のさまざまな信仰が組織化・統合され、哲学的な思索と理論化が起こった。マスペロ教授が正しければ、古代エジプトの宗教の二大流派は、デルタ付近のヘリオポリスと中央エジプトのヘルモポリスにあった。ヘルモポリスでは、声だけでなく「音による創造」という概念が生まれて具体化された。ヘリオポリスは神々を九つのグループに分けるという発想の大元で、神々がやがて同一視されていったことで一神教への道が開かれた。
ヘリオポリスがこの宗教理論の発祥地だったなら、エジプトが他の地域に及ぼした影響は甚大なものだ。すでに歴史の初期― 第5王朝と第6王朝でピラミッドの宗教文書が描かれ、神々の頂点には9柱の神々…エネアドの概念が国中で受け入れられていた。これは、ばらばらだった地域の神々を異なる形態や顕現に分解して「すべては神の顕れである」という汎神論に導くためには避けられない思考プロセスの始まりだった。

